長らく謎の存在とされていたイングランドの作家の小説で、「リングストーンズ」「人形つくり」という二編が収められています。時代は1951年〜53年に書かれたもの。ラジオで江戸川乱歩が好きな人に〜 という感じで紹介されていたので、読みました。
はじめは情景が独特で脳内で映像みたいに浮かんでくるのに時間がかかりましたが、不気味な雰囲気で進むのでだんだんティム・バートン監督の映画のようなイメージになり、でも登場人物のやりすぎっぷりは江戸川乱歩。ほのめかしてほのめかして思わせぶりに進む感じはカズオ・イシグロ。
どちらも従属感情が主軸になっていて、封印していた種が発芽する感じの気持ち悪さなのだけど、お姫様願望と奴隷願望は紙一重なのだというのがよくわかる。
これを日常的には「母性」と混同してやっつけている人が多いと思うのだけど、「それは、ちがうよね…」とやんわり気にしていたことの理由が紐解かれてしまった。
その感情は、
アウェイな状況
で発芽する。
少し気後れしているところで、それは展現する。
だめー! そっち行っちゃだめぇぇぇーーー!
(「志村、うしろーーー!」と叫ぶ感じで)
と心の中で呟きながら、一刻も早くこの非日常の感情をやっつけたくて行動してしまう従属者の気持ちに引き込まれる。
「人形つくり」では、従属者の感情がこんな順番で刻まれていく。
かつてないほど心地よく親密な理解に満ちた雰囲気に興奮し、だんだん初めて出会ったときのことを思い出しても気後れを感じなくなった。(第二章)
人生のほんのいっときのあいだにしか経験しなかったものがあった。それは魔法を信じるふりをすること、儀式によって日常の世界から影と不思議な力の世界に通ずる道を見つけられるというふりをすることの喜びだった。(第二章)
自分はすっかり相手のものだと感じたときの圧倒されるような幸福を思い出そうとした。けれど再現できたのはほんの一部でしかなく、ふたたび現実にたしかめたいという思いがつのった。(第五章)
はじめは儀式から入る。
それが
いまの自分にある思考も感情も、すべて彼から与えられたものなのだから、反逆するだけの力が魂にあるはずがない。(第九章)
完全なバクティに昇華する。
でありながら、この小説は「ゆれ」の描き方もいい。
形ははっきり捉えられるのに、意味は理解できなかった。ずっと見つめていると、言葉は巨大なレンズをとおして見るように大きくなった。ひとつのフレーズが視野いっぱいを占め、ひとつの単語が山のように目の前に立ちはだかった。
それでも言葉の意味はわからなかった。
(第十章)
生きている実感があまりにも重いとき、なにかに感覚を明け渡してしまいたくなることがある。その現実と忘却の行き帰りに見える景色。
この部分を読んだときに、同じく「言葉」について記述している「すべて真夜中の恋人たち」の以下の部分を思い出した。
あははと笑うと、あははという文字が目のまえにみえるようだった。あははって笑うと、あははってみえる。おほほって笑うと、おほほってみえる。そう思うと、余計におかしかった。笑い終わったあとの沈黙がまたとつぜん面白くなって、今度はもっとおおきな声をだして笑ってみた。笑いながら床につけたままの頭をごろごろと動かすと頭蓋骨のでこぼこ具合がはっきりとわかり、左右でかなりの違いがあることに気がついた。
(「すべて真夜中の恋人たち」 第三章の最後の部分)
絶対的帰依のこころの種はあらゆる「アウェイと感じる場所」に埋まっていて、そこに水を与えると、発芽したりする。
インド人はそこを判断する力をブッディと言ったのだろうけど、この小説を読みながら、わたしは子どもの頃から少しこの種に興味があって、さまざまな境界をいまも探すように本を読んでいるのかもしれない。などと思いました。