たいへん現代的な英訳で読めるシリーズのゲーランダ・サンヒター。サブタイトルが「Treatise on Ghatastha Yoga (Body Based Yoga) 」で、これまたいい感じ。まえに「ゲーランダ・サンヒターとパラッパラッパー」というのを書いたことがあるのですが、わたしこの教典がだいすきでして。
この英訳版はイントロダクションの説明が親切なのですが、以下はほんとうにそう!
It is very interesting to know that in the second verse of first chapter of Gheranda Samhita Chandakapali expresses his desire to learn Ghatastha Yoga which is the cause of tattvajinana(knowledge of the truth). What is this Ghatastha Yoga? It simply means ghata(body),stha(based) yoga(yoga) i.e. body based yoga.
これは秘儀だよ、みたいな問いかけにも Chandakapali という名前が入っていたりして、般若心経で「舎利子よ」というのが入るのと似たおもしろさがある。この感じは英語のほうが感じが出るので、わたしはインドで買ってきた豆本(Rai Bahadur Shrisha Chandra Vasu 訳)を日本語化して自分のバージョンで読んでいるのですが、うちこ版の語尾は「○○なのじゃ」で統一されています(笑)。
「続・ヨーガ根本教典」の佐保田先生の訳はちょっと中国っぽいというか、並べるとこんな感じです。
- 1章4(上:Swami Vishnuswaroop 訳 / 下:佐保田鶴治訳)
There is no noose equal to maya(illusion). There is no power equal to Yoga. There is no greater friend than jnana(knowledge). There is no greater enemy than ahankara(ego).
世にマーヤー(幻術)にひとしいきずなは無く、ヨーガよりもすぐれた力は無い。また、知恵にまさる味方は無く、我慢心よりも強い敵は無い。
英語版はドラゴン・ボールを海外で観たときみたいな感じがして、好きなんですよね…。
- 1章8(上:Swami Vishnuswaroop 訳 / 下:佐保田鶴治訳)
Like a raw clay pot filled with water is destroyed(as it melts quickly),so the body is always deteriorated soon. One should purify the body baking it well by the fire of yoga.
水につかっている、焼いていない土器のように、身体は絶えず老化してゆく。ヨーガの火で焼くことに寄って身体の浄化を行うべし。
こういうのは日本語版のほうがわかりやすい。よくある土と土器の例を、こう使うか。ちょっと無理がなくない? なんて突っ込みながら読みつつ、この書はゲーランダ先生が松岡修造みたいな勢いで、最後までもってかれちゃうんですよね…。
シャバーサナがムルターサナという名前でもあったり、細かく読んでもおもしろい。
権威的なところや相変わらず従順ではない女性の価値がめちゃくちゃ低い前提であったりしますが、そういう節は申し訳程度な配分で入ってるだけという感じがします。終盤のメッセージのすがすがしさは、やっぱり最高!
特に好きな7章20と最後の7章23を紹介します。(上:Swami Vishnuswaroop 訳 / 下:佐保田鶴治訳)
One should consider that caitanya (the Conscious Self) based in the body is non-dual (without a second), eternal and supreme. Knowing that atma (the Self) or caitanya (the Conscious Self) is separate from thebody, one should be detached from worldly attachments and passions.
アートマンは体内に住する意識であって、不二、永遠、最高である。身体から分離したるアートマンを知れば、人は貪欲を離れ、宿世の性向を離れる。
英語版は身体ベースな感じがたまらないし、日本語版は佐保田先生が vasana を「宿世の性向」と訳しているのがいい。わたしがわりと鍛錬スタイルでクラスをやっているのは、ゲーランダ・サンヒターが好きだからなのですが、その理由はラストのこの感じも含めてのこと。
O Canda! Thus I have to told you that samadhi which is supreme and difficult to attain. By knowing this, one is not born again in this terrestrial world.
チャンダよ、以上汝に説いたサマーディは得難い、最高のものである。これを知るならばこの地上に再生することは無い。
ハタ・ヨーガ・プラディピカーのラストとは対照的に、なんとあっさりしたことよ! やることやって、そんじゃーね☆ みたいな感じがいい。
冒頭はクリヤといってひたすら体内洗浄から入ります。魂の容器としての身体に物質的にアプローチしつつ、最後のほうに宿世の性向もきれいにできるぜ、きっと! みたいな展開がいいんですよねぇ。なんか、かっこいいんです。
「達人のヨギは知っている」みたいなトーンが少ないから「ほんとかよ」という気持ちがわかずに集中できる。いい先生って、こういうことなんじゃないかと思うのです。「ほんまいかいな」といったら「しょーがねぇなぁ、じゃじゃじゃじゃーん」とクリシュナが小林幸子化して姿を現わすバガヴァッド・ギーターを読んでしまうと、思わせぶりな秘伝文体がなんだかちっさく見えてしまう。
単純にわたしは西遊記やベスト・キッドやドラゴン・ボールやパラッパラッパーで育ってきちゃったので、ハタ・ヨーガの教典の中ではこの雰囲気が格別に肌に合うってだけかもしれないのですが、わたしはゲーランダ先生のマッチョな感じがおもしろくて気になっちゃってしょうがない。ハタ・ヨーガ・プラディピカーと練習メニューを比べるとめっちゃ数が増えてて、よみうりカルチャーセンターとグレイシー柔術アカデミーくらいの強度の違いを感じます。
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