「第一講」「第二講」「第三講」に続いて、第四講からの紹介です。
二・六四以降のことについて話されているので、プラーナヤーマ(調息)とプラティヤーハーラ(制感)に関する話題です。
<195ページより>
プラーナっていうのは、便宜上、「呼気」と息を吸う働きをする生命の働きなんです。息を吸い込む働きをする生命のエネルギーなんです。だから我々これがなかったら息を吸い込むことができないんですね。
それからサマーナというのは「等気」と、便宜上やっておりますが、訳なんてどうでもいいですけど、これが呼気、吐き出すほうの息です。それからこれヴィアーナは「遍気」なんて訳しております。これは体全体に行き渡っているという意味で「遍気」と訳しております。それからウダーナというのは、これは「上気」、こんな訳をつけております。それでこのプラーナというのは、これは呼吸を司る生命力なんです。
これは鼻の頭のところで働きをやるわけですね。これが息を吸い込んで、その吸い込んだやつを体の中へ取り込んで、そして方々へそれを運んでいくと、こういうような働きをするんです。プラーナというのは鼻の先から心臓までの間、ここからここまでの間に働いておる生命のエネルギーだとこういうんです、鼻から心臓まで。
佐保田先生の造語っぽい訳語の割り当ては「機能の役割分担」という感じなので、それも含めて読むと楽しいです。ここでは、「働きをやる」という口語表現にとてもヨガっぽさが出ています。「これは、こういう効果があるんですね」という質問をされると、「いいえ。そういう働きをするということです」という気持ちで返答することになり、動詞の動しかたみたいなところは難しいもんだと思います。
わたしは神道由来の「はたらく」という言葉が好きなのですが、そこには成果を出すことではなく「はた」を「らく」にするための活動というニュアンスがあって、とってもインドの言葉の感覚に近いから。「機能」という言葉も、自我を滅してはたをらくにする活動をする感じがとてもヨガ的だなぁと思います。
<203ページより>
次、二の五十一へいきましょう。「第四の調息は、外部及び内部の測定対象を充分に見きわめた後になされる止息である」と、私はこう止むを得ず訳したんです。実はこれは私も分からずに訳したんです。こうした方がいいだろうと思ったんですね。
ところがそうじゃなしに、その同じ原文を、「内外の対象をことごとく捨て去ったのが第四の調息である」と、こういうふうに訳してもいいわけなんです。これも私もよくわからない。正直に言ってよく分からないですね。
ここは、ハタ・ヨーガからさかのぼる視点が入った訳のようです。スワミ・サッチダーナンダさんバージョンでは「プラーナーヤーマには、内的なあるいは外的な対象に集中しているときに起こる、第四の型がある」となっていて、そこには「自動的に起こる」ニュアンスがあります。これが消えるというのはけっこう大きな差だと思うので、やはり訳本は複数、できれば英語でも読んでみるとよいと思います。
<210ページより>
プラティアーハーラという言葉は、元来どういう言葉かといいますと、それは外の方へ向かっていくやつを、内部の方へ向けて引っ込めるという字なんです。ドローイングバック(drawing back)、引っこめるという意味なんですね。外へ向かっていこうとするやつを、手綱をもって、中のほうへ引っ込めていく、引っ込める、こういう意味と、それからもう一つは、外へ出ていこうとするやつを、引きとめておく、ドローイングバックという意味とキーピングバック(keeping back)という意味があるんですね。(中略)
人類が原始の時代には、いろんな危険にさらされておったし、それから食べ物を手に入れるということも非常に難しかったから、しょっちゅう感覚器官というようなものは、耳も目もみな、外の方へ、外の方へと向かっていくわけです。外の方へ向かわなければ、感覚器官、知覚器官の必要はないわけですね。それは本来の性質なんです。しかし本体の自然の性質をそのまま放っておいては、瞑想は出来ませんから、そこでそういう働きを抑えつけてしまって、そして外界の対象との交渉を絶ってしまう、ということが、プラティアーハーラということなんです。
自分という犬を自分で散歩させるようなこの感じは、口語だとやっぱりわかりやすい。そして今の時代の自分散歩についても考えさせられます。いまは体力的には感覚を休める必要がそもそも少なくなっている。でも、放っておくとドーシャに引っ張られる。昔の人はつい活動せざるを得ないラジャスを抑えるために、休むために瞑想をしていたのだとすると、いまはタマスを抑えて正しく活動するために瞑想をする時代なのかもしれないな。
佐保田先生が、ああでもないこうでもないと思ったプロセスを垣間見ると、このスートラが編まれた時代に思いをはせる方法を教えてもらっているような、そんな気分になります。昭和の身体論の話をするときにも心がけているのですが「この時代の五感の使い方はこうであった。今はどうだ?」という問いは、やはり重要なものだと思います。
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