すばらしく読みやすい、おすすめのギーター訳を見つけました。
出版が2013年なのでわりと最近です。日本語選びにほどよく抑制がきいているうえ、カッコ書きに入れるワードの選定、またときにカッコ書きをいれずにサンスクリット語のカナ書きで終わらせる選択まで、あらゆる点でバランスがよく読みやすいです。注釈は最小限でシンプル。
バガヴァッド・ギーターはさまざまな読みかたができますが、ものすごくざっくりいうと、ずっと説教です。なのでヒンドゥー・イズムが根づいていない日本人が日本語だけで読む場合、さまざまな節の響きかたが読み手の心理状態によって変わってきます。
器の形が変わればそこに注がれた水のアウトラインが変わるようなものですが、「出版物」というのは手にした物質感もあり信じやすいため、訳す人は多少なりとも以下のような思考のパターンを想像するかと思います。
- 本=ほんものの教え⇒自身の判断をすっとばして鼓舞される
- 本=ほんものの教え⇒もともと指示待ち体質のところにマウント・洗脳。蟻に砂糖
- 本=ほんものの教え⇒書物の中に、他者のせいにできる理由発見。わたし悪くない⇒自己を省みない自己肯定
鼓舞・マウント・肯定じたいは効用でありつつ、そこまでの間で濁ってしまうのが人間。
この熊澤教眞さんの訳はこのような面でも配慮が行き届きバランスがよく、義憤を肯定する言葉をていねいに避けているように見えます。書体はメイリオや丸ゴシックで親しみやすいのに、言葉選びは慎重。
とくに難しいであろうプルシャやプラクリティのカッコ内の日本語選びもしっくりきますし、カッコ書きなしで進むところもあって、その選択も含めてうまいなぁと思っていたら獣医学博士で専門が感染生物学と巻末プロフィールにあり、妙に納得しました。ギーターの訳はヨーガやヒンドゥーの心理学的側面・神話学的側面・自然科学的側面など、求められる「正しさ」の方向性が多いので複雑なのです。
インド思想の学者さんの訳と日本語の表現面でアバンギャルドな田中嫺玉さんの中間をいくような感じでありつつ、言葉は現代的。説教くさくない。いくつかピックアップして紹介します。
岩波文庫の上村勝彦訳と田中嫺玉訳(神の詩)と、本書の熊澤教眞訳を並べてみます。(以下カッコ内敬称略)
- 4章2節
このように、王仙たちはこの伝承されたヨーガを知っていた。しかしそのヨーガは、久しい時を経て失われた。
(上村勝彦訳)
この無上の学問(みち)は このようにして
師弟継承の鎖によって伝えられ
聖王たちはこれをよく会得していたが
時代とともに鎖は切れ人々はその真義を見失った
(田中嫺玉訳)
これが、熊澤教眞訳になると
↓
王族の聖者達はこうして伝承されてきたヨーガを知っていた。(しかし)このヨーガは、長い時の流れの中で、この世から失われた。
「王族の聖者達」とする親切さ、そして「長い時の流れの中で、この世から失われた」という自然さ。この節は物語的に読めればいい、という節がさらりと訳されています。
- 4章29節
他の人々は、プラーナ気とアパーナ気の道を制御し、調息法(プラーナーヤーマ)に専念して、プラーナをアパーナの中に焼べ、アパーナをプラーナの中に焼べる。
(上村勝彦訳)
恍惚境に入るため呼吸を支配する者もいる
呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気を呼気に捧げ
ついに呼吸をまったく止めて恍惚境に入る
また食を制し 呼気を吸気に捧げて供物とする者もいる
(田中嫺玉訳)
上村勝彦さんの「焼べ」は、呼吸の火や浄化の要素を含む感じがしてすきですが、いきなり読む人にはわかりにくいです。
田中嫺玉さんの訳は、その前の2つの節の流れもあってかなり強めの修行バイアスがかかっているのですが、それにしても一行目はちょっと強すぎな気もします。
これが、熊澤教眞訳になると
↓
呼気を吸気に捧げ、吸気を呼気に捧げ、呼気と吸気の流れを制御して、呼吸法(プラーナーヤーマ)に専念する者もいる。
この同量で捧げあう相互感覚は、のちのハタ・ヨーガ教典でもプラーナとアパーナのワンセット感が引継がれていきます。なのでここはこのシンプルさがすてき。
- 16章18節
彼らは我執、暴力、尊大さ、欲望、怒りを拠り所とする。妬み深い彼らは、自己と他者の身体に宿るこの私を憎んでいる。
(上村勝彦訳)
これらの魔的人間どもは利己主義 権力欲 自尊心
そして情欲と怒りに惑乱して
彼ら自身と他者の体に内在(やど)る
わたしを軽蔑し 見向きもしない
(田中嫺玉訳)
ここは、「彼らが蔑視しているわたしも、彼らなのだ」ということを言いたい場面なのですが、
これが、熊澤教眞訳になると、上村勝彦訳をほんの少し変えるだけで、こんなに伝わりやすくなる!
↓
この嫉妬深い人々は、我欲、暴力、傲慢、欲望、怒りに没頭し、彼等自身と他人の肉体に宿る私を憎んでいる。
「この」の位置の微妙な違いで、スッと入ってくる。怒りや恨みの感情は共有しやすいからインプットしやすいのだけど、そこで義憤を誘う選択を避ける言葉選びがすてき。
そして、以下は上村勝彦訳のたまに出る日常語がたまらないこの節。
- 2章11節
あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。
(上村勝彦訳)
君は博識なことを話すが
悲しむ値打ちのないことを嘆いている
真理を学んだ賢い人は
生者のためにも死者のためにも悲しまない
(田中嫺玉訳)
ここの「分別くさく」「博識な」のところは prajnavada。訳の割れかたが「知識」に対するスタンスを示すところもあり興味深い節なのですが、
熊澤教眞訳では
↓
汝は悲しむ必要のない人々について、悲しんでいる。しかも、汝は尤(もっと)もらしいことを言っている。賢者は聖者のためにも死者のためにも悲しまない。(熊澤)
「もっともらしい」って、これまたスッと入ってくる。「分別くさく」ってのもおもしろいけど、それがまた説教くさく感じる(笑)。「しかも」は抜かないんだ… なんてところもおもしろい。ここは、アルジュナが駄々をこねている場面だから。
この熊澤教眞さんの訳は「紋切り型で味付けの濃い自己啓発表現を退けつつ、でもスッと入る」という絶妙なところを丁寧に探っていて、「ていねいなギーター読書」の世界に誘われます。すばらしい一冊です。おすすめ!
★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。