うちこのヨガ日記

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聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ 第六講(日本ヨーガ禅道友会)


第五講で「瞑想」の説明に入っていますが、第五講では1章17・18節と42節以降がリンクする有定無定のあたりを掘り下げています。だいたいどこでもヨーガ・スートラの講義のメインイベントになるであろう、このあたりですが

ここでまたサマーディとあってね、サマーディとサマーパッティがまぜこぜに使ってあるところをみると、やはり仏教の影響だろうと、サマーパッティというのは仏教で使う言葉ですから、定というのは。だからこれは、仏教の影響であることは、まず間違いないと思いますね。

これを知っているのといないのとでは、だいぶ状況が違います。ヨーガ・スートラ独特のつぎはぎ感(もともと四冊で、時代もばらばらのものがいま一冊の本として読まれている)が最もよく出ているところです。



この講座は佐保田先生による有想三昧(サムプラジニャータ・サマーディ/想念、観念がまだある状態)の説明が実におもしろい。無想三昧直前の、四段階目に至る部分の説明が貴重と思ったので紹介します。(参考:四段階=有尋三昧、有伺三昧、有楽三昧、有我想三昧)
1章36節についてこういう説明をしている解説はあまり見られないので、貴重かと思います。

我想というものが三昧の中へ出てくるときには、それが一つの具体的なビジョンの形で出てくるんです。それでどういう形で出てくるかというと、真っ白な光になって出てくる、と書いてありますな、白光として。と言うのは、有我想三昧の我は、本当の真我ではなくて、これは心の本体であるチッタというものを真我だと、こう思っているわけです。そこでそれに対して精神を集中しますと、そのチッタが、真っ白な光になって出てくると、こういうんですね。失礼、そうじゃない。チッタというものが真我でないのに、それを我だと思う心が、我想ですね、アスミター(asmita)ってやつです。これは煩悩です。ところがこの煩悩ってやつは非常に微妙なものなんで、この我想という一つの想念が、具体的な形で出てくる白光になるんです。真っ白な光のビジョンになって出てくるんですね。

この、「失礼、そうじゃない」以降がいい。チッタ(心)・我想・煩悩をひとまとめにしておいたあとで、それがどう光になるのか、という説明のしかたです。



(つづき↓)

 これがなぜ真っ白な光になるかというと、この我想ってやつが、三昧によって、だんだん浄化されていって、そしてサットヴァ性だけの性質のものになって残ってくるんです、この第四の段階においてね。サットヴァ(sattva)というのは、だいたい光を持ったものなんです。光り輝くものなんですから、そこでアスミター、つまり我想というものが、真っ白な光の、しかも大海のような、波立たない海のように広々として、無辺な光の形になって出てくると、こう言うんですな。

「解説 ヨーガ・スートラ」で「ある註釈家によると〜」と書かれているところを口語で噛み砕いて説明されているのですが、「チッタというものが真我でないのに、それを我だと思う心が、我想ですね」というのが、すごくわかりやすい。「アハンカーラ(エゴ)のくせに、さもプルシャみたいな顔をしてしまうお門違いなマインド」(サーンキヤ的視点で「のび太のくせに生意気だ」というような)という状態です。なんとなく、天皇にお手紙を渡した人へ世間が向けるバッシングの目線と似ていますね。でも、そんなアスミターも浄化されると光り輝く! という説明です。ヨーガの大乗感。




無念無想のむずかしさも語られています。

心の動きを止める想念とはどういうものかというと、心の中に、何か、ある一つの想念が浮かんでくると、その度ごとにその想念を消し止めていくところの一つの心理操作であると、心理作業であると、こういうことができるわけです。何でも起こってきたら、すぐそこでそれを抑えてしまう。これも何でもないようなことですけれど、なかなか難しいんですね。
 普通の心理状態ですと、こういう消極的な手段で成功するってことは非常に難しい。かえって逆効果をもたらすんです。だから僕は禅宗が坊さんに、そんないままで何の修行もしていない人をつかまえて、無念無想になれっていうことは馬鹿げたことだと、言うんです。無念無想になれって言うほど有念有想になってしまって、ますます無念無想から遠ざかってしまう。だから『ヨーガ・スートラ』ではそういうことは言いません。

エネルギーが余ってる状態で瞑想すると妄想になるんだよねぃ。



ニル・ヴィカルパ(nirvikalpa)というのは無尋定です。無尋定はヨーガ・スートラから言うと低い段階なんです。ところが今のインドでは、このニル・ヴィカルパ・サマーディというものを非常に高い段階、ここに言うところの無想三昧に等しいものと解釈しております。

こういう感じも、教えてもらえないとわからないものですよね。



最後は、ヨーガ・スートラでは人格神をそう高くみていない。三昧に入るときに必要なヘルパーだという程度にしか見ていない、という説明がされていました。


ヨーガ・スートラはバガヴァッド・ギーターみたいに「神様が呼ばれて飛び出てジャジャジャジャン」みたいなことがないのが、信頼が置けていいなぁと思うのですが、最後のほうの「トンデモ霊力集」がちょっと残念なんですよねぇ。「ヨガあやしい」といわれて「あやしくないよ!」って、言えない根拠が満載(笑)。まあどっちも好きなんですけどね。

(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)

▼「聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ」の感想・前後分はこちら


★参考:佐保田鶴治先生の本の感想をまとめた本棚