知人による知人の悪口を聞きながら、考えたことを書きます。うわさ話にしろ、世間話にしろ、なにげない会話の中に「誰かに対してよくない感情を持っている」という意思を示され、ときに賛同を求められることがあります。
話す人は「悪口はいけない」って思っているから一生懸命抑えていて、「こういっちゃナンだけど」「悪くいいたかぁないけど」「人によってはあれがいいところなのかもしれないけど」とか、がんばってこらえてる。でもね、そうしてる瞬間にもカルマを積んでると思うの。
こういうときわたしは、心の解け合う間柄の仲間には「やだーーー!もーーー! って言っていいよ(笑)」と言います。なんか、心のドアをチラチラ開けようとしてまた閉めて、やっぱり開けたいの、みたいなときは、「You 開けちゃいなよ」と思うのです。
ちょっと気を利かせてあんたのほうから覗きに来てよ、みたいな甘えを含んだ話をされると、コーヒースプーンに映る自分の顔の角度を微妙に変えてみたりして、別の妄想をはじめちゃう(笑)。
愚痴聞き地蔵なんてのがあるくらいなんだから、開示できるときに開示したらいいと、そういうことなんじゃないかな。
開きたい、というのは生命力として、悪いことではないと思うのです。もうそれ以上できるだけ濁らせず、ねじらず、ゆがませず、曇らせずにうまく開いて出したいものですよね。こういう志で語り合える知人友人の存在は、いつだってありがたい。
で、今日はここからがわたしの自己開示。
ねじらず、ゆがませずにって書いたのですが、わたしはこれをされるのがとても嫌です。
かなりの確率で聞く気を失ってしまうフレーズがあります。
「みんなそういってる」
トミーと松で、トミーが「トミ子ぉ〜」って言われたときみたいなヒクヒク現象が、わたしの中で発動します。鼻や耳は動きませんが。「そうなんですかぁ。みんなが……」と言いながら、もう聞く気を失ってる。「みんな」って、よくないときに使っちゃダメなぼかし表現ぢゃないかい。
腹が立っているのは、わかるんです。でもバイアスをかけたり盛ったりした瞬間から、悪業(バッドカルマ)の坂道へ足を踏み出してしまう。なので、そうなる前に、そのまま出せるうちに出しちゃったほうがいいと思うんですよね。便が硬くなる前に出しといたほうがいいのと同じで。
インドにいると、まともなトイレとの出会いが確保できなそうな移動というのがあって、そういうときは、食べる量・飲む量からコントロールします。心もこれと同じように、きっと練習すればできるはずなんですよね。
そこでインド人は瞑想を開発し、日本人はトイレを開発しました(笑)。
よくない感情の発現は、自然現象。でも、そこに嘘を掛け算したら、悪業になっちゃう。
そんなに簡単に悟れっこないのに、なんでよくない感情の存在を否定しようとするんだろう。聖人になれるとでも思っているのだろうか。現世利益思考のままそれをTODOにするのはキツかろ、と思う。
わたしは「聖人ぶるのは、逆立ちしてヨーデル歌えるようになってから」くらいでいいと思うんですよね。(ここは高い声を出す難易度を想像して読んでくださいね。テキトーに書いてるわけじゃないから)
汚れた大人の修行の道も、けっこう楽しいもんよ〜
なのでね、時にはグチって、いいと思いますよ。
でね、そんときに、「盛っちゃいけねぇ、ねじっちゃいけねぇ」と思って頭の中で文章を作っているうちに、けっこうどうでもよくなったりします。
ほんとに、そうなのよ。やってみて。