うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

否定的想念、行為への対処法


インド思想・比較宗教の講座の準備を兼ねて、いろいろな聖典のなかでも楽しく読めそうなところを再確認しています。わたしはこの作業が大好きで、過去に自分が貼った付箋のコメントを見ては「なるほどー」と当時の感覚を思い出しています。
今日はコーラン下巻の中に「YS」という付箋コメントがあるのを見つけました。「YS」はヨーガ・スートラ。過去の自分が何を思ったのかをまた探す。ちゃんとメモしておかないところが、「過去うちこ」のズボラな習性。彼女は「未来うちこ」を思いっきり信用しているみたい。なので「現在うちこ」はいつも苦労します。


探しなおしてみたら意外と真面目な紐付けで、「よくない妄想におちいったときにどうするか」ということを書いているよ、ということでした。ヨーガ・スートラのほうは佐保田先生の訳よりも、スワミ・サッチダーナンダ&伊藤久子訳者さん版のほうが伝えたいことに近かったので、そちらから引用します。
まずは、ヨーガ・スートラのほう。パタンジャリさんいわく

否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの【肯定的想念】が想念されるべきである。
それがプラティパクシャ・バーヴァナである。(2−33)


暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、そしてそれらが貪欲・怒り・迷妄(貪・瞋・痴)のいずれによって煽られたものであっても、またそれが穏和・中位・過激のいずれかの度合いによってなされようとも、それらは無限に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。(2−34)

「程度に関わらず無限に根ざしているもんだから、省察と上書きしかないわけだ」と。ここはなんとも、インドっぽい。時代がバラバラのスートラのなかでもこの部分は成立が早い時期とされていて、仏教の三毒(貪・瞋・痴)ともシンクロしてる。いずれにしても、「悪魔」の概念がない教えなので、自己責任です。
ヨーガ・スートラではこのあと、否定的想念と行為にニヤマ(勧戒)がどう効いてくるかの説明になっていきます。



そしてこんなとき、ムハンマドさんの中のアッラーさんは、こうおっしゃいます。
コーランは井筒先生しかないので、いつも愉快な井筒先生訳で。これは下巻のメッカ啓示・全45節「わかりやすく(という章)」に登場します。

善と悪は同じではない。だが(他人に何か悪いことをされたら)もっと善いことで(その悪を)追い払え。そうすれば、いくら不倶戴天の仇敵だとて、まめやかな友だちのようになること疑いない。と言うてもこのような性質(悪に報ゆる善をもってすることに)を戴けるのは、よほど辛抱づよい人にかぎる。よほど立派な素質をもって生れた人にかぎる。(34、35)


もしシャイターン(サタン)の誘惑が汝を悪に駆り立てようとしたら、すぐにアッラーのおそばに遁げ込むようにせよ。耳敏く何から何まで御存知のお方だから。(36)

34、35まではパタンジャリに近い。のだけど、
「まめやかな友だちになんて、まあ、なれんわなぁ。そうとうオトナじゃないと」としたうえで、「困ったら、おいで。いつもちゃんと見てるから」と。たまんない包容力。
このやるせないモヤモヤを神に棚上げさせてくれるイスラームコーランは「ビジネス指南書」としてもかなりグッとくる啓示が満載の聖典です。



なんというか、ヨーガの指導が現・日ハムの栗山英樹監督だとすると、イスラームは松岡修造さんな感じなんですよねぃ。栗山監督はダンディだし知的だしとっても素敵なんだけど、修造の勢いにはかなわないなまったく、というような。
本当に「だめだわし、この悪い妄想がなかなか抜けない!」というとき、どっちが勢いでクリアできそうかというと、修造コーチのほうかも〜。中長期的には、ヨギ的にはパタンジャリさんを迷わずすすめとけって話なんですけどね。それはヴェーダーンタ叶恭子さんがやってくれていたので、今日はあえてイスラームとからめてみました。