先日、街で通りすがりに20代の頃に知り合った仲間を見つけ、わたしから声をかけて終電まで話し込んだ。
夜にかつての仕事仲間と食事をし、道で別れ際に少し後ろを向きながら挨拶をし、さて駅へ向かうかというときに自分を追い越していった人の顔に見覚えがあった。「その人はこの街にいそうか」「服装はその人らしいか」と条件を加えながら脳内検索をしつつ、歩きかたですぐに確信が持てた。あまり腰をねじらずにまっすぐに上下のスイングで歩くあのスタイル。あの人だ。
あ、あの人が道を渡る。横顔を確認するチャンス。やはり先輩だ!
◯◯くん!
もうお互い中年ではあるが、急に「◯◯さん」と呼ぶほうが気づいてもらえるスピードが遅くなるだろう。
…と思って相手が振り向いたときにはもう両腕を広げたハグの体勢へ。ミュージカルか。わたしたちはとても開放的な人間関係のなかで出会い、その後もその関係を保つために開放的であってはいけない相手のいるときには情報を出さないオフサイド・ラインのコントロールも共有してきた。昨年オンライン上のやり取りでそういうことの大切さをあらためて教えてもらったばかりだった。いつか会えるとは思っていたけれど、見つけちゃった!
「うれしい! いま時間ある?」
「あるある!」
「お茶できる?」
「行こ行こ」
「そうだなぁ、この時間だと…」
「もうそこのジョナサンに入ろ!」
先輩から問われる「いまタイムスケジュールは、どういう動き方で生活してるの?」のはじまりで、前後関係を要約しながら話す。もちろん自分の周辺のことだけを、自分の主語で。理性的にも情緒的にも感覚の微細な人の前では、共通の知人の名前が比喩やオープンな事例以外の用途で出てしまうのは御法度だ。無意識に漏れてしまう不満由来のセコいあてこすりは、どんなに些細なものでもすべて見破られてしまう。この緊張感がたまらない。げらげら笑いながらしがみついていきたい。
終電まで数時間、それぞれの働き方の移行・変遷を話した。同時進行する生活のさまざまなことも。働き方改革は個人がそれぞれにやるものだという考え方はお互い10年前から変わらない。仕事のしかたの話で、細い針穴を通すようなバランスをいっしょに探してくれた。いままでつらかったことも、慰めてくれた。そして大いに笑った。先輩の「古い日本映画の喋り方モノマネ」の咄嗟のクオリティに感動した。こういうのをいつでもサッと出せるところを尊敬している。
話をしながら、手帳の中にインドで買った om のキラキラシールがあったのを思い出して渡したら、さっき入手したというヒヨコのチョコレートをくれた。なにこれ、かわいい。
価値観は多数派じゃなくても、自分なりに考えて判断して生きていれば、こんなうれしいこともあると思える夜だった。
先輩はこの日、別の人とも買い物中のレジ前で再会があったらしい。顔の広い人だ。翌朝先輩の書いた日記のようなテキストを見に行ったら、充実しすぎていて今週自分は死んでしまうのではないか、でもまだ会いたくて会えていない人もいるから生きるだろうと書いてあった。
昨夜は振り向いてくれてありがとうとメッセージを送ったら、呼び止められる側の喜びを味わえた一方で老眼が始まり自分から気づけなかったことが悔やしいと返された。仲間とともに老いるのは愉しい。