うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ 第三講(日本ヨーガ禅道友会)


第一講」「第二講」に続いて、第三講からの紹介です。
だんだん細かいところに入っていきますが、人気の「1章33」の話が出てきます。
「パタンジャリの中の人たち」が長い年月をかけて編み上げたヨーガ・スートラの、各章のどれが時代的に先かという話。仏教の影響を受けつつできあがっていったスートラを、まるでひとりサスペンス劇場のように推理して語られています。出てくる各国の訳者さんの名前がハウエルとかウッズなどの名前で、つい野球の打順を予想しているような気分になるのは、わたしだけか。
この頃のパタンジャリは…、とか、この節句とこの節句は同じ人かも、という感覚でヨーガ・スートラを読むのがだんだん楽しくなってきました。
仏教唯識との関連から歴史を紐解いていくプロセスも興味深かったです。



ハウエルさんは第一章の1〜22「ニローダ・テキスト」の部分が一番新しいとされていて、そこの解説より。

<130ページ ヨーガ・スートラの内容 より>
この部分を書いた人は、同時にこの『ヨーガ・スートラ』を編集した人だろうと、ハウエルはみております。それはどうか分かりませんよ。はっきり分かりませんが、このニローダという言葉が仏教の影響を受けていると、ハウエルは言っておるんです。私もそれは正しいと思うんですね。

(中略)

で、仏教ではそのニローダという言葉を、滅とか、あるいは滅盡定、定という字はないですけどね、定という字は別にあるんです。本当は。サマーパッティという言葉はあるんですが、ニローダだけで滅盡定と、こう訳したりしているんです。

ウパニシャッド」を読んだときに思ったのですが、佐保田先生は漢字の当て字が独特に固定化されていて筋があるのだけど、その筋が独特だったりするので、まあ、癖がある。これは英語版でサンスクリット記述も参照しながら読むようになってからわかりました。
なので、「オレなら漢字版パタンジャリをこう表現するね」と。そういうノリの話です。


(つづき)
 ところがどういうものかアメリカとかイギリスの学者は、これをコントロールと訳しているんですね。コントロール・オブ・アイデアースと、ウッドが訳しているんですが、どうもコントロールという意味は出てこないんですね。岸本さんはコントロールという訳に依ったらしいんですけれども、ニローダにはそういう意味は出てこないんです。インド人のシヴァナンダという人のヨーガの辞書を見ますと、やはり先ずレストレーン、抑制する、抑えつけると言う。これも確かにあるんですね。抑えつける。動かないようにしっかり抑えるつけておく。あるいはサプレッション、その次のデストラクション、破壊するという訳がついておるんです。だから滅と言う、滅ぼすと言う、そういう意味が、インドの学者は認めておるわけです。ですからこれは仏教から来たものとして見ますと、明らかに滅なんであって、コントロール、コマンドという意味じゃないんですね。

ここはおもしろいところ。わたしも英語で読んでいると、「でたっ!コントロール」と思ったりします。



佐保田先生は「ニローダ」という仏教こ言葉自体は非常に古いものだから、「ニローダ・テキスト」をもっとも新しいとするのは仏教の影響があるという理由だけでは成り立たない、「ニルマーナ・チッタ・テキスト」のほうがさらに新しい、と考えていたそうです。仏教の影響という視点で見ると、ニルマーナの方が唯識の言葉と共通するから、というのがその理由だそうです。

<136ページ ヨーガ・スートラの内容 より>
仏教の唯識派、これは仏教では一番発達した思想です。(中略)唯識派の思想、それから瑜伽派、これはヨーガですね、瑜伽派というのは、これは唯識派と同じものなんで、後に唯識派のことを瑜伽派というようになるんです。

(中略)

昔は仏教は、お釈迦さん時代にはヨーガって言葉は修行の名前としては使っておらんのですから、ですから瑜伽教派なんていうのが出来たのから見て、これは明らかに後世のもんだと言うことができます。で、この唯識派は、早く見ても四世紀ですからね。それより遅い。世親なんかになりますと五世紀に下るかも分かりません。この世親の年代ははっきりしませんが…。そのほかいろいろ仏教の唯識の言葉に似た言葉が、この四章にはたくさん出てきますから、これは新しいことは間違いない。私はこれを第五番目と見たいと思っているぐらいです。

このへんの流れを知っておくと、親鸞の思想を読むのも面白くなります。(まえに仏教唯識とサーンキヤの話を書きました


<161ページ パリカルマ ─ 心を清める方法(1章33〜40の解説) より>
仏教では人が悪いことをしてくれても、感謝しろとは決して説きませんね、これ。そういうふうには説かないわけで、そういうときには捨というものがある、捨という気持になる。悪いことをしても、自分に対して悪いことをしても、それに対して愛を持てとか、あるいは感謝をしろとか、そういう逆説的な感情を奨励しておりません。

(中略)

だからこういうのはなにも道徳ではないんです。他人に対する道徳ではなしに、自分の心を清め、自分の心を鎮める、清澄ってことは同時に清めるってことですから、心を清めるための方法、清めるってことは、心の働きを少なくするってことなんです。

代理戦争になりようがない方程式なのさ、と。このキリスト教との比較はシンプルだけど、ハッとした。


「捨てる」教えの深みをしみじみ感じました。

(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)

▼「聞き書き抄 解説ヨーガ・スートラ」の感想・前後分はこちら


★参考:佐保田鶴治先生の本の感想をまとめた本棚