インドの哲学体系のうち主要な16種類を叙述した概説書『サルヴァダルシャナ・サングラハ(Sarvadarsanasamgraha)』(14世紀、マーダヴァ著)の訳本が2冊構成で出ているうちの、後編の一冊を読みました。後編にはミーマンサー、文法学、サーンキヤ、ヨーガ、ヴェーダーンタの章が入っています。「マーダヴァさん」という名前は何人も各分野に有名な人がいますが、このかたはシャンカラの不二一元論派(Advaita)の学者さん。なので当然最終的にはヴェーダーンタ推しなのですが、他の教派の解説をした内容がこれまたすばらしい。
今日は第12章と13章のなかでグッときたところを紹介します。ヨーガや仏教以外にもインドにはたくさんの学派があって、ちょっとおもしろいローカーヤタ派を以前紹介したことがありますが、いろいろあります。
ミーマンサー派やニヤーヤ派はだいたい六派哲学の中にカウントされるのですが、まずはこの2派の論説交換から紹介します。この2派はサーンキヤやヨーガがあまり話題にしないところをつついてくれるので、読むと「あー、そこ、ぶっちゃけききたかったの」ということを語ってくれており、わたしはこの本を読んでミーマンサーも文法学もいいなぁ♪ とまた惚れっぽいモードになってしまいました。
まず、ここにシビれたよ!
<第12章 ミーマンサー学派の哲学 P18より>
『しかるに<再生族の>弟子を入盟させ、ヴェーダ補助学と秘説とともに、ヴェーダを教授するであろうところのそのバラモンを、人々は師と呼ぶ。』(Manusmrti 2-140)
それゆえに、師を行動主体とするところの教授は、弟子を行動主体とする学習なくしては成立しない。したがって「教授せよ」という命令の実行によってこそ学習の実行が成立するのであろう。なんとなれば、教令を受ける側の受動者(=弟子)の活動がなければ、活動を促す側の能動者(=師)の活動は達成されないからである。
マヌ法典からの引用で、師弟関係の封建的なありようのなさを説く。たまらん。
「ヴェーダはことばなるものであるから無常である」という説に対するミーマンサー学派とニヤーヤ学派の論説は、素朴な疑問へのつっこみがありがたい。
<ミーマンサー学派の主張>
最高主宰神は、身体を有さない者であるから、口蓋などの発声器官(sthana)は存在しないはずであり、したがって(個々の)音節を発音することは不可能である。だからヴェーダが最高主宰神によって作られたものであるということが、どうしてありえようか?
<ニヤーヤ学派の反論>
その議論は正しくない。なんとなれば、最高神は、それ自体としては身体を有さないけれども、信愛する者(bhakta)に恵み(恩寵)を垂れるために、遊戯によって身体をとることが可能であるからである。それゆえに「ヴェーダは人格的作者の作ったものではない」という(ミーマンサー学派の)理論は正しくない。
ニヤーヤそれ苦しかろ、それは苦しかろ〜! とツッコミながら読むんです。インド哲学はこういうのを何回もやって、筋トレみたいにやっていくもの。で、人によってはニヤーヤ派の説明が好きだったりするだろうと思います。こういうのはバガヴァッド・ギーターの11章っぽくてちょっと楽しいですからね。でもギーターの11章で「えええ、そ、そこで、脱ぐんか〜い!」とつっこむタイプの人は、けっこうミーマンサーにハマれると思います。儀式に関する研究を掘り下げている学派が、とても数学的な分解を繰り返すのが気持ちのいい章でした。ミーマンサーは、イチローの哲学スタンスに似てるんだよなぁ。ちょっとマニアックすぎるたとえだが。
第13章は文法学派の哲学という章で、ヨーガ・スートラではない文法家のほうのパタンジャリさん(マハーバーシャという大註解書を書いた人)の教説が登場します。ちなみにパタンジャリさんは有名な人が3人いて、もう一人は祈祷家(prayer)。ヨーガ・スートラの1.1が「これからヨーガの解説をする」ではじまり、マハーバーシャの1.1.1が「これから語の教示が始まる」というはじまりで、この二人のパタンジャリさんは活動された時代が全く違うのですがヨーガのほうが文法家の「化身」と言われたりもしているようです。こういうのがとてもインドっぽいところです。わたしの感覚では、はるな愛さんがあややさんの化身だというのと同じくらい無理があると感じますが、インド人は大真面目です。
それはさておき、文法学自体はパーニニさんの哲学です。この章は面白いので、冒頭を引用紹介します。
【邦訳】
さてこれから、パーニニ(Panini)の哲学が説き始められる。【一 「語の教示」】
【序説】
<反対主張者の質問>
「これは語幹部分であり、これは接辞部分である」というような語幹と接辞との区分がどのようにして知られるのであるか。
<文法学者たちの返答>
パタンジャリ(Patanjali)の流れをくむ者たちにとってその詰問は何の驚きも起こさない。なんとなれば、文法学は語幹と接辞との区分を説明することが専門であるということが一般に承認されて定まっているからである。すなわち『大註解書』(Mahabhasya)の作者である聖パタンジャリの最初の文章は次のとおりなのである。
【『大註解書』(Mahabhasya)の冒頭の句の意義】
『これから語の教示が始まる』(MBhas.,1.1.1)と。この意味であるが「これから」(atha)というこの語は、論題提示(adhikara)の意味で用いられている。論題提示とは、新たに章を始めるということと、開始のことである。また「語の教示」(sabdanusasana)という語によって、パーニニ(Panini)によって著わされた文法論が意味されている。もし「語の教示」とだけ述べられると、<いったい、語の教示が始められるのか、あるいはそうでないのか>という疑問が起こるであろう。そのような事が起こらないように「これから」(atha)という語が用いられているのである。つまり、「これから」という語を使用することにより他の意味が排除され、「始められる」という意味が表わされるからである。すなわち「女神たちよ、われらを助けるために幸あれ」等のヴェーダの諸語や、その理解を助ける「牛、馬、人、象、鳥」などの世俗の日常語が、それにより教えられるので、つまり単語を要素に分解してふたたび組み立てながら語幹と接辞との区分を持つものであるとして(それにより)示されるので、「語の教示」というのである。
「いったい、語の教示が始められるのか、あるいはそうでないのか」なんて疑問に思わないよ! とつっこみたくなるところです。前半はほぼクレーマー。でも後半の、『「これから」という語を使用することにより他の意味が排除され』というのは、なるほどと思います。マハーバーシャは読んでいないのでわかりませんが、先に書いたとおり同様の書き出しのヨーガ・スートラの場合、途中で「それはヨーガに限らず、仏教でも同様では?」というまぜっかえしの隙を与えず、自らの論説を纏め上げて語るにあたっての土台になる。哲学が学問として権威のある国の思想って、やっぱりすごいわ。
で、なんでこんなにとことんやれるのかという理由がこの章の末尾にあって、これにはちょっと感動した。
『ことばのブラフマンに沈潜する人は最高ブラフマンに到達する』(マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド6-22, マハーバーシャ12-233-30)と学識ある人々が説いているから。したがって、語の教授の学(=文法学)が解脱の手段であるということが確定した。それゆえにいわく、
『それは解脱の門なり、口の汚れの治療法なり。一切の学問を浄める火なり、学問の学問なり、と人々は説く』(ヴァーキヤパディーヤ1-14)と。
また、
『これ(=文法学)は成就(=解脱)にいたる階梯の第一歩なり。これは解脱を願う人々の真正なる王道なり』(ヴァーキヤパディーヤ1-16)ともいう。
それゆえに、文法学は人生最高の目的を実現するための手段として研究されねばならないということが確定した。
ラストの一行がシビれる。
ここに出てくる「ヴァーキヤパディーヤ(以後Vakyap)」に、「語根」の意味が書かれていて、この本の82ページでマーダヴァさんの説明が訳されています。
(また語根については、)語根はもの(bhava 有るもの一般)を教示すると考える説と、語根は動作(kriya)を表示すると考える説と、二説存しているが、前者の説においては、「有るもの一般」とは有性にほかならない。したがって語根の表示する意味は有性であるといわねばならない。また後者の説においても、
『他の人々は、多数の個物の中に存在する作用を類と称す』(Vakyap3-8-21)
といって、(ヴァーキヤパディーヤの中の)「動詞論」(kriyasamuddesa)において、作用が類なるものであるということを教示しているから、(やはり)語根の表示する意味は有性にほかならないのである。
サンスクリット語の「語根」は、日本語にはない概念のものが多くてとても面白いのだけど、それはさておき注目したいのは「多数の個物の中に存在する作用を類と称す」という分解。類似性に至るまでの「類」の説明。どこまでも刻むなぁ。でもこういう学びのスタンスは親しんでいくととても日常の中で役立ったりします。
かねてよりマントラの説明をするのにきちんと理解しないといけないと思っていたスポータについても、この章で説明されていました。
【四 ことばの形而上学】
【語は世界原因である】
スポータと名づけられ、部分を持たない常住なる語がブラフマンにほかならず、それが世界の原因であると(バルトリ)ハリによって「ブラフマン篇」(Brahmakanda)の中に述べられた。──
『それより世界の創造の起こるところの<根源>にして、不壊にして語を本性とする、終わりも始まりもないブラフマンが、事物(意味)として展開する。』(Vakyap.,1-1)
聖音Omを理解しようとするとき、ブラフマ信仰のこういう書物の歴史を掘り下げてみると、サーンキヤやヨーガから派生した方面の学びだけではわからない潮流のようなものが見えてきます。
<もろもろの音節(字音)から意味の理解は起こりえない(P73) より>
スポータ(sphota)とは音節とは別なものであり、しかも音節によって開顕せられ、そうして意味を理解せしめる常住なる語である、とスポータ論者たちは語る。それゆえに
(1)スポータとは「もろもろの音節によって開顕される(sphutyate)、すなわち顕現される」という意味であり、音節によって顕現されるものである。
(2)またスポータとは「それから意味が開顕する(sphutati)、すなわち明瞭となる(sphutibhavati)」という意味であり、意味を理解せしめるものである。このようにスポータという語の意義を人々は二様に説明するのである。
それゆえに尊師パタンジャリ(Patanjali)は『大註解書』(Mahabhasya)の中に次のように説いている。──『<問>さて「牛」という場合に、語とは何であるか? <答>それが発音差照子とによって、頸下の垂肉・尾・背上の隆肉・蹄・角の概念の起こるところのものが、語である』(Mbhas..vol1.P1,L10)と。そうしてカイヤタ(Kaiyata)は、「文法学者は、音節とは別なものである語が意味をいい表わすものであると考える。なんとなれば、もしももろもろの音節がそれぞれ意味をいい表わすものであるならば、<最初の音節を発音しただけで意味が明瞭となるから、その後でさらに>第二以下の音節を発音することは無意味となるであろうから」と説き始めて、「スポータは音節(字音)とは別なものであり、音声によって顕現され、しかして意味をいい表わすものである。それはヴァーキヤパディーヤの中に詳細に確定されている」という文句で終わる議論によって説明している。
このあと反対論者の主張として「スポータから意味の理解は起こりえない」という論が展開されていきますが、わたしはインド人の先生がマントラについて説明するときに、「実は詩そのものの文章にはあまり意味がないというか、音声そのものがうにゃうにゃ……」と説明されたことが、ここを読んだらすこし見えてきた。「音声によって顕現」という概念が、そもそもわかっていなかった。
スポータは、手元の辞書で見ると
breaking forth,splitting open,bursting,blasting; the idea which bursts out or flashes on the mind when a sound is uttered; the impression produced in the mind on hearing the eternal sound Om; manifestor.
とあり、わたしはクラスの最後(ヨガニドラのあと)にやるチャンティングでは「splitting open+manifestor」という感覚を味わって欲しくてそういう構成にしている。
ヨガ周辺の哲学は、言葉そのもののシャクティまで分解されて文法学にまで及んでいくので、たぶんわたしは一生かかっても「さわりだけ」で終わってしまうのだろうけど、「文法学は人生最高の目的を実現するための手段として研究されねばならない」というのはほんとうにアツくてかっこいい。
久しぶりに勉強をしていてキュンときました。
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