日本人がヨーガ・スートラを読むとき、瞑想の経験があっても、八肢の凝念と静慮は難しく感じると思います。この部分のパタンジャリさんのお話は、澤庵宗彭の説いた「剣禅一味」とよく似ています。ということで、「不動智神妙録」のご紹介。
沢庵和尚は徳川時代の人なので、聖典のなかでは高校の古文の授業感覚で読める、新らしい日本語。解説なしの文章でも、じゅうぶんグッときます。全体もそんなに長い書ではないのですが、ここがタクワンジャリだぜっ☆ってとこを、いくつかご紹介しましょう。わたしは「不動智神妙録」を「太刀ヨーガ・スートラ」と呼んでいます。ヨーガ・スートラの1章と2章を読む代わりに、これでいいんじゃないかね。ってくらいの内容です。
五節の「心の置所」。ここから炸裂します。
心を何処に置かうぞ。敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取られるなり。
敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取られるなり。
敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。
我が太刀に心を置けば、我が太刀に心を取らるるなり。
われ切らじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるるなり、
人の構えに心を置けば、人の構えに心を取らるるなり。
兎角心の置所はないと言ふ。
太刀を題材に書かれると、ものすごくスーッと入ってきませんか。
第六節は、「本心」「妄心」という言葉が出てきますが、まるでプルシャとプラクリティの原理を説いているかのようであり、内容はサーンキャ・ヴェーダーンタです。老子を想起する人も多いでしょう。
本心妄心と申す事の候。
本心と申すは一所に留まらず、身体全体に延びひろごりたる心にて候。
妄心は何ぞ思ひつめて一所に固り候心にて、本心が一所に固り集りて、妄心と申すものに成り申し候。
本心は失ひ候と、所所の用が欠ける程に、失はぬ様にするが専一なり。
たとへば本心は水の如く一所に留らず。妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ申さず候。
氷を解かして水と為し、何処へも流れるやうにして、手足をも何をも洗ふべし。
心一所に固り一事留り候へば、氷固まりて、自由に使はれ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候。
心を溶かして総身へ水の延びるやうに用い、その所に遣りたきままに遣り使ひ候。
是れを本心と申し候。
因中有果論の説き方の水と氷の比喩は、ヨガナンダかっ! と思うほど。「本心」と「妄心」の境界にあるブッディの説き方が、この短い文章の方でしっくりいってしまうところがすごい。「身体全体に延びひろごりたる心」という「静慮」の解説もたまりません。
七節までくると、こんなくだりがあります。
一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり。
車の輪も堅からぬにより廻るなり。一所につまりたらば廻るまじきなり。心も一所に定れば働かぬものなり。
「チャクラまでこの流れで説明してしまうのでありますか!」という展開。
沢庵漬けだけでもすでに生活の中でお世話になりまくっているのに、こんなスートラまで書かれていたとは。空海さんの「ひとりインド六派哲学メドレー」っぷりもすごいですが、沢庵和尚のひとりパタンジャリっぷりも、かなりのものです。
(参考)今日引用した「不動智神妙録」の綴りは、三省堂の「佛教聖典」を参照しました。