うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガによる 病気をなおす知恵 沖正弘 著

ヨガによる 病気をなおす知恵
いま集中的に野口先生の本と亀井進氏の均整体育の本を読んでいます。これと並行して沖先生の本を読むと、読みどころが違ってくる。沖先生の本のパンチは、やはり中村天風先生仕込の「絶対積極」にあるように思います。
今日はおもにその部分を中心に紹介します。


本質的には同じことを言っていると感じる両者(野口先生・沖先生)ですが、野口先生が「腰椎」で語るのに対し、沖先生は「胸椎と頚椎」で語る。
わたしはヨガをしているので沖先生の「胸椎と頚椎」と、首と足首(アキレス腱)を主軸にした説明のほうが経験と照らし合わせて理解しやすいのですが、それは一度「腰椎の世界」にどっぷり飛び込んでみてから気づきました。


字は大きいですがそれなりに厚みのある本です。医学的なニュアンスが色濃く、いまは「病気」「カルマ」の二語を関連づけて語るとスピリチュアルだヤバいぞみたいな見かたをされる時代ですが、沖先生はそこに向き合い続けてきた人なので、その部分についての語りには力を感じます。
何箇所かご紹介します。ページの順番は紹介したい内容の流れがあるので少し前後します。

<56ページ なにも使わずになおすのが最上のなおし方 より>
 ヨガは自業自得の教えで、自分に関するいっさいの責任は自分がとるべきであると提唱している。ヨガ入門の心構えが "依頼心を捨てよ" である。また、自分の問題を自分で解決しようとするとき、その問題を活用して進化することができるのもヨガである。ヨガはすべてのことを教えとして、自分をみがき育てようとするものであるから、病気をただ病気として見ずに、自己改造の天与の手引きであると見る。病気や悩みをとおして生活を知り、自分を知り、宇宙を知り、真理を学ぶのだ。

法律や条令がどんどん生まれるいま、「問題を活用して進化する」「悩みをとおして学ぶ」という言葉にどれだけ個人で向き合えるか。問題の活用を外部や社会に求めないこと。そんなことを考えさせられる記述です。



<44ページ 病気の作り主は自分だ より>
練習の結果、いったんそれをなしうる能力が身についてしまうと、いちいち考えなくても、無意識にそのことができるようになるのであって、この身についていて、自分をあやつるはたらきをしっているもののことを、ヨガでは "業(カルマ)" といっている。
 業はふたつのものからなっている。ひとつは先天的なもので、遺伝とか素質とか天分(天性)とかいい、自分の能力では変えられないはたらきである。もうひとつは、後天的なもので、習慣性といい、これを変えることができる。自分とは、このふたつのはたらきがひとつになったものである。
 習慣性、すなわち癖は、後天的なものであるが、いったん身についてしまうと、これは先天的なものであろうか、それとも後天的なものであろうかと考えてみてもわかりにくくなってしまうものだ。

「自分をあやつるはたらきをしっているもののことを、ヨガでは "業(カルマ)" といっている」。いっけん回りくどく見えるけれど、この一文は日本人に伝える説明として、すばらしすぎます。



<64ページ バランスのとれた生活をすれば自然になおる より>
 からだのことはからだ自身が、"どうすればよいか" を正しく知っているのに、この真実に従うことをしないで、学問的という人為的なものとか、宗教的という神秘的なものにだけ従おうとするところに誤りが生じ、真実のなおし方や救われ方を失ってしまうのだ。生きることに関するかぎり、真実をなしうるものは生きる力(いのちのはたらき)にほかならない。
 ヨガの病気のなおし方とは、このいのちの要求(正しいバランスをとろうとするはたらき)に従うことである。異常なバランスのとり方を、正常なバランスのとり方に方向転換させることである。すなわち、エネルギーの使い方や、欲望や感情の出し方を正しく方向づけるのである。

保障を求めるところから従う心が導き出されていると思うことって、ありませんか。いろいろな人が「他人の価値観にゆだねている」とか「人の頭に便乗している」という趣旨で言及しているけど、わたしには沖先生の表現が沁みます。



<95ページ 心身医学とヨガ哲学の比較 より>
人間はよく記憶し批判するという性質を持っているから、よほどこころのできた人でないかぎり、異常現象を気にしやすい(注意を集中するからそこにエネルギーが逆流集中する)ために、この執着心が固着力をさらに強化することになる。
人間心の特徴は緊張興奮しやすいことでもあるが、とらわれたり、こだわったり、ひっかかったりするほどその緊張が固着強化し、その持続的緊張刺激によって生じた症状もまた固定する。しかし、欲求心や情動心は無意識層から出るこころのはたらきであるから、これを意識的にコントロールしたり、放下したりすることが容易でないばかりでなく、条件反射化しやすいものである。上手にこの心的エネルギーを排出消耗することはできないで、内部にうっ滞沈潜させると、その持続的刺激で生理機能が変化し、さらにこれがつづくと器質にも変化をおよぼすことになる。
 このこころのストレスは症状として現われる場所は、人によって相違するのだが、その理由については解明されていない。私は、この理由は、その人の身についている "質" と"癖"の相違からであると思う。

ここで語られている内容と関連して、わたしは個人的に「こころのストレスの感じ方の相違=責任感の好み=こうありたい自分」というふうにとらえているのですが、自分の「身についている価値観を身体から知るきっかけ」として、ヨガはすごくよいものだと思っています。
沖先生の時代はまだ「自己責任」という言葉が普及する前。現代のほうが進歩した議論が世の中に増えているように思います。



<221ページ 胃ガンの話 より>
完全な医学知識を与えられることなしに、マスコミのことばの魔術にひっかかって、死ななくてもよい人が神経かく乱のために死んだりする。この罪をなんと表現してよいのか私にはわからない。
 この地上に敵なるものは存在しないのだから、いかなるものも悪視したり、これと戦うなどという暴挙に出ないことだ。自分の調和力が高ければいっさいの相手は味方になるのだと気づこう。

この罪をなんと表現してよいのか、わたしにもわからない。



<248ページ 血液の話 より>
 血液はただ漫然と流れているのではない。その流動には一定の法則があり、必要に応じて対抗または同調して常時体温や血液量のバランスを保っているのである。たとえば皮膚の血管と内臓の血管とは対応しあっている。すなわち一方が少なくなると、他方に多くなるのだ。寒さにあったり、発熱前にはガタガタとふるえるが、これは内臓血管がひろがって血液をそこに集めるからであり、熱気を覚えるときや発汗するときには、血が体表に移動するから、このとき食べ物を食べるといけないのである。脳の血管と腹部の血管も対抗しあっているらしく、腹を暖めると脳血管が収縮してくる。腎臓の血管と皮膚の血管は同じはたらきをしているようである。だから腎臓患者が長時間の微温浴をつづけると、発汗とともに尿量がふえてその治療に効果があるといわれている。
 とにかく発汗法は物理的な体液浄化法として最上のものだ。発汗すると多くの水分を失うので一時的に血が濃くなり、正常濃度に回復するため組織の中から水分が吸収されるのだが、このとき、組織中の不要水分や有害物、老廃物も運び去れるし、不要脂肪も燃焼されるのである。よくからだを使う者の血が清く、なまけ者の血がにごっているのはこのためである。

「血&汗」よりも「尿&汗」のほうが先に実感しやすいと思います。



<300ページ 首を凝らしてはいけない理由(全文)>
 首と足首は関係し合っていて、その中和点が丹田である。足首が故障したり、丹田の力がぬけると、肩にちからがはいり、アゴが出たり首がまがったりする。足首を正常に保つには、親指に力をこめてアキレス腱を伸ばすことが大切である。
首がまがっているのは、首と胸の筋肉が収縮、硬化して、頭蓋骨の各縫合部がゆるんで頭骨が下垂していることだ。これでは首から上の血のめぐりが悪くなり、吐き気、めまい、頭痛などがする。首は脳と内臓の連絡部であり、首が硬化すると両者の完全な連絡がとれなくなる。首を通って脳から内蔵に迷走神経が達しており、頸椎の一番上には、延髄があるし、頸部からはまた甲状腺副甲状腺ホルモンも出ている。
 迷走神経は内臓のはたらきを抑制または促進し、延髄は呼吸作用や心臓の運動に関係し、ふたつのホルモンは、新陳代謝を促進し、他のホルモン系にも影響を与え、食欲や精神的なものにも関係する。
 このように、首は生活していく上にとても大切な役目を持っているから、凝らしたりなどしてはいけない。

首・手首・足首に重要なはたらきがあることは、年々実感しています。


<345ページ 心理側面からのなおし方 より>
 「自分を束縛していたものは、自分の妄想であり、錯覚であり、曲解であり、無理な要求であった」。これは、釈の悟りの第一声であるが、こう悟ったとき、"解脱" への道が開かれていた。
 私たちのこころには、たえずいろいろな雑念妄想が浮かんだり、消えたりしている。生ある者にはこれはあたりまえのことであって、ことさらにこれを克服しようとするから異常になる。雑念妄想のいっさいはあるがままにしかならないのだから、これを良き方向へと利用することが大切である。

<374ページ なにごとも楽しんでやろう より>
 とらわれないこころを作るためには、自己流の考え方(はからい)のとらわれから離れる練習が必要である。その練習が座禅である。はからわないこころとは、考えないことではなく、起こったいろいろなこころを持ったまま、とにかくやってみようというまかせきったこころになることである。
 宗教では、自分の考えの全部を神にゆだねよと教えている。苦しいことはだれにでも苦しいのだから、がまんしてただやる以外にはないのだと。思いなやみながらも、喜びながらつくそうとするこころが信仰心であり、こころにくつろぎとやすらぎを与えてくれる最上のものである。

こういう積極性って、いいですよね。




やっぱりいいな、沖先生。


沖正弘先生の関連書籍はこちらにまとめてあります。