うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

整体 楽になる技術 片山洋次郎 著(紹介2回目)

2012年1月追記:整体を通じて世の中を見る「ユルかしこい身体になる」もおもしろいです。

2年前に『キタコレ!!!「整体 楽になる技術」片山洋次郎 著』というエントリーで感想を書いて、もう一度読みました。
2年後に自分が職場や道場やその他の場所でいろいろな経験をして読み直したら、紹介したいと思うところが明確にパパッと光りました。

<229ページ 身体という箱舟に乗って より>
 身体はその時代その時代の環境に帰省されてきた。古くは共同体の伝統や身分制度に縛られ、「近代」以降は「個の自立」という脅迫、「前向き」に生きなければならないという強迫にさらされ、最近ではむしろ、身体は拠り所を失って漂流しているかに見える。
 情報空間は、直接に触れることが出来る空間から見れば、はるかに広大で方向感覚も距離感も不確かで手応えが見えない。ここで拠り所になるのは、身体そのもの以外にはない。
(中略)
 身体は自分の「思い通り」になるわけではないが、どこかに逃げて行くものでもない。身体の歌に耳を傾けることが出来れば、身体の内側の世界が広がる。その時身体は、究極のリゾートでもあり、それが内側から湧いてくる意欲や自信のもとになる。「思い切り生き切る」ということがここにある。

最近身の周りに「"前向き"に生きなければならないという強迫」で、口で言っていることとは裏腹にハートが縮んでいる瞬間を目にすることが多いので、やはりこういう記述が気になる。


これは日常のエピソードなのだけど、たまに一緒にヨガをする後輩で、「ITの世界で働いている者として、もっとこうならなきゃ」という思いで頑張っている子がいるのだけど、わたしはそのへんの話は深入りしないで(仕事ではあまり関わらないので)マイペースに「足の裏」とか「バランス」の話ばかりしてるんですね。で、またなにげに電車の中で「がんばらなきゃ」という話をされたとき、いつも思っていることが自然に口から出てきた。


わたしは自分なりにITのいいところは使うし研究もしているけれど、自分の感覚で本当に信じられるのは、もはや足の裏くらいしか残っていないんじゃないかと思うことがある。
外食へ行っても、「クチコミで美味しいとされている」「一緒に行った人が美味しいといっている」という情報で、自分の感覚が100%の状態からいくぶん減って、そこに付加されるバイアスがかかる。目で見るものも、耳できくものも、そう。もう足の裏くらいしか残ってなくない? と。


漠然と「がんばらなきゃ」と思う前に、信じられる感覚を確認する。それをしないで頑張るポーズをとるよりは、ひとつひとつ認識していく方が、いいことだと思う。そんなことを伝えたくて話したのだけど、アーサナを重ねていったら、わかってもらえるかな。
自分よりも若い世代の子たちの感覚が、こなれた対応摩擦の積み重ねで「つるつるのタイヤ」みたいになってしまうのはとても淋しい。そういう環境を作ってしまうわれわれ自体にも、認識しなければいけないことがいっぱいあると思う。まずは、「われわれはアメリカ人ではない」というところからね。


とまあ、そんな毎日の中で、気になったところの引用紹介の続き、いきます。

<14ページ 身体の内側の時間を生きる より>
 自らの死は元々不可知なものであり、他者の死しか見ることは出来ない。自らの死を意識するということは、自己を他者として外側から見るということに他ならない。逆にいえば内側からの「生の眼差し」にとってはどこまでいっても「生あるのみ」なのである。死への不安は外側からの眼差しを獲得してしまった人間の宿命とも言える。この「内側」と「外側」の相克は宗教や哲学の根底的課題でありつづけている。仏教で言う一切の現象(=色)は空であるというテーゼは。外側からの眼差しによる世界の顕現と「内側の生」との間の相克を揚棄しようとするものであろう。いずれにしても生を充実させるということは外側からの眼差しを和らげながら、内側からの眼差し(世界と連続し一体化している)を守り拡大するということに他ならない。

インド人みたいなことおっしゃいます。

<36ページ 身体間のポジション(角度)がコミュニケーションを変える より>
 まず最も緊張が高まるのは真正面に向き合う位置である。真正面に向き合うというのは、強い警戒感があるか、敵対している場合、またはまったく無防備で相手に気を許している場合である。つまり敵対的・挑戦的か、相手に対して強い意欲や好意を持っているばあいということになる。中にはひとを無意識に真っ直ぐに見つめてしまう癖のある人がいる。そういう人はその気がなくても相手に敵意を感じさせたり、逆に気があるように誤解されたりしやすい。整体では、相手の体の中心軸に向かってしまうと反応がうまくいかなくなる。中心軸を少しよけるように角度を調整するとうまくいきやすい。

わたしはヨガのときは気をつけるのですが、日常では「ひとを無意識に真っ直ぐに見つめてしまう癖」がある。たまに「わたし、またなんか癖、見つけられちゃった?」とか「ちょっと、ドキドキするからやめてください。てか、僕なんか霊しょってます?」という誤解をされます。なにも見えてないから、気をつけなきゃ。

<54ページ 「学級崩壊」の時代 より>
完璧な親を目指すことよりも、出来ないことをはっきりさせて、役割を「外部委託」したほうがよい。外部をとりこむことが空間の閉鎖性を破る。「完璧」よりも「いいかげん」の方が距離感はゆるむ。

むずかしいけど、本当にそうなのよねぇ。

<55ページ 身体をメディアとして再編する より>
 メディアの存在は身体のメディア性に根ざしている。「外部」メディアが発達したのは、テクノロジーの発達のおかげばかりではない。その元にあるのはコミュニケートせずにはいられない、身体の「内部」メディアの欲求である。そして身体はメディアの一部となり、メディアは身体の一部となって相互浸透してゆく。

twitterの状況を見ていると、「コミュニケートせずにはいられない」外部メディアがここまでライトになったか、と思う。流行りは人の心の中の「Lower Nature」をあらわにする。twitterの状況を見ていると面白い観察ができるけれど、少し不安にもなる。うちこの身近な人を見ている限りでは、わりとアーティスティックな感性を持っていたり、「自然」に向き合う生活をしている人ほど、健全に戸惑いながら使用している感がある気がします。

<90ページ 眠りは究極のリゾートである より>
 深い眠りは「身も心も」軽くする。一般に、骨盤底部は無理やり集中したり追い詰められたりしたときに緊張し(=腰椎4番は硬くなる)、覚醒を高める方向に作用する(興奮して眠れない、あるいは眠りが浅くなる)。骨盤上部はやりたいことに集中している時に縮む(=腰椎4番は弾力がでる)傾向がある。この場合、眠りは深くなる。つまりやりたいことをして、満足度が高いほど眠りも深くなりやすいということである。

わたしはプライベートでお友達のホームグラウンドへ行ってヨガを指南することがたまにあるのだけど、相手が落ち着く、愛している環境でヨガをしてもらうと、(同じ人が)他の場所でやるヨガよりも格段に身体が開いているのがわかります。4番との関連を、今後研究してみたいと思います。

<107ページ 睡眠と呼吸 より>
 深い呼吸とはどういうことか、全ての背骨が骨盤も含めて、呼吸のたびに良く動く、ということである。身体にとって深い眠りは、深い呼吸による究極のマッサージである。それによって身体に弾力と元気を取り戻すのである。

身体の方が動いて呼吸を通す、というのは、ほんとうに静かな内観。うちこは「のび太」と呼ばれてしまうくらい誰よりも早く寝てしまうのだけど、今度仲間とどこかに泊まることがあれば、観察してみよう。過去に映像を見せていただいたことがあるのですが、沖先生もめちゃくちゃ道場の生徒たちの寝姿を観察してた。

<109ページ 呼吸と呼吸の間がダイナミズムを生む より>
 目が覚めている間で、もうひとつ意識のコントロールを完全に外れている瞬間がある。呼吸と呼吸の間、つまり息を吐くときから吸うときに移る瞬間と、吸うときから吐くときに移る瞬間である。この瞬間身体は完全に脱力し、無防備である。
(中略)
 整体で体に触れる場合、指先の力を抜いて、呼吸を感じ取れるように触れるのが基本であるが、実際、ストレスが強く「心に隙」を作れない状態の人の呼吸は、呼吸と呼吸の隙間が感じにくく、リラックス度が高い人の場合は、呼吸と呼吸の間がゆったりしている。

剣道の「隙」のところですね。最近剣道をやっている人にヨガを指南した(これもプライベートで)ことがあって、次にその人に会えるときは、そこを観察しながら一緒にやってみようと思っています。

<114ページ 身体の歪み? より>
 このような歪んだり引きつったりしている身体を「整体する」とき、無理やり矯正する必要はない。たとえば「捻れている」とすれば、捻れている方向にわずかに捻りを加える。それによって呼吸は大きくなる。身体は呼吸を深くする方向につねに動こうとしているからである。その動きにわずかに加勢してやれば身体は弾力を回復するのである。つまり身体はつねに身体をより良く機能させようとする動きの中にあり、その動きの「つかえ」をとってやれば自律的回復の過程を取り戻すのである。
 身体はつねに何らかの動きの途上にあり、一時としてとどまることはない。どのように動くかは環境の変化(季節的、気候的、社会的、人的環境)に応じてつねに変わって行く。能動的に刻々と身体のバランスを変えながら生きている。その動きが途中で「止まって」いる状態が「歪み」や「硬直」として表れるのである。
「元気がある」とは、どのような方向にも動き出せる弾力のある構えを身体が維持しているということである。

※この5年後の2006年に書かれた「整体から見る気と身体」で「あとでだんだん分かってきたんですけど、関節のズレと反対方向にやっても流れのいい所がある。そういうやり方でやるようになって、変わってきました。(25ページ)」という記述があります。

「反対方向」が、いわゆる沖ヨガの「修正体操」に近いと思うのですが、わたしはヨギだからやっぱり反対方向へむけた意識をする。でもそのまえに、「どっちが苦手か」という認識をします。そうすると、やりやすい方向もいちど認識することになる。「弾力のある構え」とは、は、むしをやりやすい方向の認識場面の方が感じやすい。いいヒントをいただきました。

<132ページ 不安定な集中をする身体=止まらない身体 より>
(新入社員の研修を例にした後)興奮状態にある間は気がつかない。繰り返し刷り込まれると、興奮と気持ちよさの区別がつかなくなる。
 興奮→達成感→落胆→新たな興奮という果てしないサイクルになり、止まらなくなる。
 こういう身体はこの一○年くらいの間に随分増えてきたように思える。少なくとも私が整体に関わり始めた二○年前には、吐く息に合わせて身体に触れていれば身体の緊張が緩んで、呼吸が深くなったものである。最近は逆に、吸う息に合わせてゆかないと緊張が緩まない人が時々いるのである。

わたしも、「ああ、この人この言葉で、吸う息を選んだわ!」と思うことがたまにあります。ヨガの場面では、聞いた言葉への本人の反応が、無意識に腰にフォーカスするかハートにフォーカスしているかの違いであることもあると思う。力点が腰であって欲しい場面でハートを選ばれると、こうなる。「胸を縮めると楽」という身体の反応が増えている気がする。

<135ページ 不安な身体 より>
 誰でも時々不安になる。そういう時何となく呼吸が浅くなっている感じがしないだろうか。逆に不安が安心に変わるときには「ホッ」とする。息が深くなるのである。「ホッ」というのは、息を吐くということである。不安になりやすい人の呼吸を観察すると、吐く息が短い。息を吐ききる前に吸ってしまっている。あわてて息を吸っているように見える。
そして胸の真中は硬くなっている。(胸の筋肉が緊張している。)

いまほんとうに、呼吸がヤバい人が多い。自分がヨギになる前にもともとそうだったので、本当によくわかる。吸いがちではなく、止めがちで、クンバカ娘でした。

<140ページ 身体が世界を生む より>
 生態系的に見れば、身体は生態系から生まれ、生態系の不可分な一部として織り込まれているといえる。生きている身体の内側から見れば、身体はその境界を超えて環境に広がっている。そのような世界観は特異なものではない。たとえば道教の影響を受けたといわれる仏教禅では、世界を見る意識や言葉の動きを止め、直接身体的に世界を把握することを目指す。ヨーガの瞑想の場合もそうだが、意識の優位性を解体して、身体──環境世界に意識を融解させ、"ただそこにある"ことを至上とする。身体の積極的胎児化といってもよい。その地点に立ち帰ることが生を活性化する。

非常によい説明ですここ。

<156ページ 「内股系」と「外股系」── それぞれの行動様式 より>
 片付けるとか整理するという日常行動は、一種の情報処理であり、その人の記憶の整理の仕方も、その「片付け方」に現れるものである。<内>向きスタイルのひとは、目に見えるとことにあるものが乱雑でも、引き出しや押入れの中は整然と分類され、整理されている。以前、立花隆氏の仕事場をTVで取材していたのだが、デスクまわりはコックピットのようで、手に届くように資料の棚が取り囲んでおり、全館に渡ってびっしりと資料が整理されていた。それは立花氏の「頭の中」情報ファイルの構造そのものといってもよいだろう。
このようにいつでも情報が引き出されるように整理されているのである。それが記憶構造そのものになっている。そういう意味で、<内>向きの人は非常に記憶力が良い。逆にいえば忘れたいような記憶でも一生忘れられない。これに対して<外>向きスタイルのひとは、目に見えるところにあるものは片付けるが、押入れや納戸のようなところに乱雑に押し込んでしまう。一度しまってしまったものは、本人が整理したつもりでいても、何を何処にいれたか忘れてしまいやすい。逆にいえば、整理してしまうことにより、嫌なことはさっさと忘れて気持ちを切り替える能力があるともいえるのである。またそうやって限界や境界を乗り超えて新たな分野を開拓するのである。

ここ、占いみたいで面白いでしょ。

<157ページ P・マッカートニーとJ・レノン より>
 ビートルズでいえば、ポール・マッカートニーは<内>向きスタイル、ジョン・レノンが<外>向きスタイルである。歌うときの姿勢というものは、そのひとが最も集中しやすい姿勢を無意識のうちにとるものである。ポールの立ち姿が「内股」スタイルで、ジョンが「外股」スタイルであったのが思い起せるだろうか。ポールが純粋音楽志向、ジョンが「革命」志向であったのも、身体的傾向の現われとしても見ることができる。また両者がうまくかみ合ったときにより大きなダイナミズムが生まれたということもできるのである。
 IT分野でいえば、<内>向きはビル・ゲイツである。「マイクロソフト帝国」を、その隅々にまで神経を行き渡らせ、コントロールする。経営者であり、プロデューサーである。それに対して<外>向きのひと、LINUXの開発者であるリーナス・トーバルスは基本ソフトをネット上で公開してしまった。「囲い込む」のではなく、多くの人の参画によってソフトを遠心的に開発させる方向を選んだのである。どちらが正しいというわけではないだろう。ウィンドウズが世界基準になったことで、ITが爆発的に発展したことも事実であるし、一方LINUXの登場は、中国のような途上国の技術者の参画を容易にした──まさに国境を越えたネット的な発展形態そのものでもある。

ここも、面白い。体癖的には、わたしはポール。

<205ページ 「胸騒ぎの腰つき」──「前向き」身体の行き詰まり=息詰まり──足裏重心の後退 より>
「足の裏」の研究者、平沢彌一郎の報告は示唆に富んでいる。
「足長を百とした場合重心の位置が、二○年前は踵から四七パーセント周辺にあったものが、最近ではその位置が四○パーセントあたりまで後退してきた」(『足の裏は語る』筑摩書房)というのである。この本の刊行が一九九一年であるから、七○年頃から九○年頃までの間に重心が七パーセントも後退してしまったのである。平沢はこのことの原因について、「現代人は生きるための希望を失ってしまったことが、直立能力の衰退に繋がっているのではないか」と述べている。また「気構えの喪失」であるとも言う。

踵もそうですが、いま「外後ろ」に傾いている人も本当に多い。わたしは、勝手にこれめちゃくちゃ研究してます。女性が男性化してるのがいちばん気になります。男性みたいなバランスをされるとどんどん腰幅が広がってしまうので、心配。

<220ページ 骨盤底部の頑張り・我慢・そして興奮 より>
 「骨盤上部の縮み=快感」→禁止・抑圧→「骨盤底部の縮み=我慢・頑張り or 興奮」→解放→「骨盤底部緩み=快感」

 このように骨盤底部の縮み=緊張は何らかの欲求を我慢して禁止・抑圧を受け容れる体勢である。そして本当はやりたくないことを頑張って成し遂げようとするときの体勢ということになる。

(中略)

 骨盤上部の縮みに基づく行動は、自らを他者の評価によらずに認めるということであり、あるがままの自分を認めるということである。それは根拠なく沸いてくる自信に繋がる。これは他者の評価によって生まれる自信と比べてはるかに力強い。
 他者の評価による自信は他者に依存する分だけ不安定なものである。他者の評価に振り回され、自らを見失うこともあるのである。つまり骨盤底部の緊張による頑張りは、達成感と快感をもたらすが、不安定なのである。安定した充足・満足に着地することなく、さらなる頑張り、興奮→一時的達成感=焦燥感・不全感というサイクルを生みやすい。
それは際限のない頑張り、興奮と快感という止まらない上昇志向・嗜癖・依存傾向を生む場合もある。頑張りに対する評価というご褒美は、欲望の対象として様々なものに置き換えられ得る。

最初のほうに書いた、わたしがよく「つるつるのタイヤ」といっているやつです。


わたしは最近、少しだけ交友関係の傾向に少しだけ異変が起きています。たしかな感覚で共通言語を見出そうとする人からよく話しかけてもらえるようになりました。もともと知り合いだった人なのに、そういう方向に話がいく傾向になっていたりもする。
そういう人にコメントを求められるたびに、言葉をさがしてる。これはなにか、新しい修行なのかもしれない。

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(2012年1月追記: ↓この本はその更新版ともいえそう)


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