中古で買いました。1992年の本で、著者さんは同年に遷化されています。
中村天風先生や沖先生、佐保田先生のような、日本人の先達ヨギが残した言葉が好きなので入手して読んでみました。本文中には沖先生の言葉にふれるくだりがありましたが、このかたは「血液の浄化」にフォーカスを置いた一貫性があり、興味深い内容でした。実践から発せられる言葉というのは人それぞれ。人の表現にインスピレーションをもらうことがよくありますが、このかたの表現もおもしろかったです。
先にあとがきのコメントから紹介しますが
<252ページ あとがき より>
「神」というのは、要するに「心の自在性」を確保する文化である。明朗性、自在性、神、という一連の表現は、私にとってはまったく同じ意味になっている。明朗性に乏しければ、その結果は、道徳性が鈍り、夫婦喧嘩から世界大戦にも発展する。
天風師のいう「積極性」、沖先生のいう「確かめよ」、佐保田先生がユーモラスに語るダジャレ交じりの数々の言葉と同じように、このかたの言葉の「明朗性」という表現が印象的です。
この本は「肉体編」とありますが、沖先生の著作と同じように、総合的な、インテグラルな構成です。沖節に近いものがありますが、より現代に近い分、ロジカルに感じる文章です。スシュムナーや血液循環の話題に至っては、本山博氏ばりの細かさもかいま見えます。
ではでは、紹介いきます。
<32ページ 病気と人類の運命 より>
病名を正確につければ、病気が治るのだったら、病名は、まことにありがたいことだ。しかし未だかつて、病名が断定されたからといって、病気が治ったためしはない。病気を治すために、病気を追いまわしている人々の姿がまだ、そこに見える。
(中略)
病気というものは、本来ないのである。それはただ、健康が足りないということだ。
この「健康が足りない」という算数。このかたの言葉は、一貫して算数的な光明があるのが特徴。
<42ページ 精神と肉体とは一者である より>
そのカラクリは案外簡単である。怒り争い、不平不満、恐れ悲しみ、嫉み憎しみ、などの暗い感情をいだくと、その感情がただちに間脳から大脳以下に伝達して、そこにある自律神経の中枢が攪乱されてしまうのである。各内臓も血管もみな、自律神経の命令によって動いているのだから、中枢の嵐はたちまち内臓と血管の乱れとなって現われる。神経伝達の速さは一秒百二十メートル、たちまちというもおろかである。
(中略)
脚が堅くなると頑固になる。骨盤が曲がるとひねくれる。肩がねじれるとカンシャクになる。頸(くび)が堅いと疑い深くなる。体の重心が前に傾くと心配性になり、後ろに傾くと傲慢になる。頸が前に出ると干渉好きになり、腰が前にでると臆病になる。だから性格を直したいならば、必ず体についた癖を直さねばならぬ。それを知らずに、反省とか教育という努力を重ねても、ボートの底にできた穴をふさがずに水を掻き出そうとするようなものだ。
(中略)
治療の原理は一元である。血を清めればよいのである。その清め方に二つの道がある。心と体とである。トンネルは、両方の入り口から掘っていっても、プラスの原理しかないから、二倍の力しか出ない。ところが人間の体と心とは、両方から攻めると相乗するのだ。足し算と掛け算とは大変な違いがある。
「反省とか教育という努力のまえに、やることがある」のあとに展開する掛け算のヨーガ実践理論。すてきです。
<55ページ 長息は長寿の最高原理である より>
呼吸の形は、心の形である。長い静かな呼吸をすれば心が穏やかになる。心を心で支配することは難しい。が、呼吸と心との法則に従ってよい呼吸をすれば、いとも容易に心を支配できるものだ。
「呼吸の形は、心の形」、いいですね。ほんと、そうです。「指圧の心は母心」と同じように暗記しておきましょう。
この話のくだりに「肺胞は7億個あるのだから」と、しっかり身体の解説があります。
<59ページ 腹息は血循の基盤である より>
腸と頭脳とは、直結している。腸が悪くなると頭が悪くなる。腹式の大事なことはこれでもわかる。
腹式は、腹圧をつくる。これが明朗な感情と、機敏な動作を創造する。腹に力が入るということは、人間の重心が安定したということだ。肩のほうに力がこもると、重心が上がって、人間の心も体も不安定になる。
以前「あ〜、今日も快便だ。仕事うまくいっちゃうよこれまた」と言ったら同僚男子に「ほぇ?」という顔をされたのですが(いろんな意味で「ほぇ?」なんでしょうけど)、本当なんですよ。冴えとキレが違う。
<83ページ 水浴は酸素を全身に配る より>
血液の酸・塩基の中庸、自律神経の交感・副交感の平衡、この二大健康基盤も、これ(温冷浴)によって確保される。すなわち、温浴は血液アルカリ性に導き、冷浴は酸性に誘うから交互の繰り返しによって中性になる。同様、温浴は副交感神経を刺激し、冷浴は交感神経を刺激して、両者の拮抗をつくっていくから、失調が治るのである。
沖先生や整体の方々も話されていることですが、すごく簡潔でわかりやすかったので、メモ。
<130ページ 愛の整体法 より>
整体法をうける者もまた、柔軟心を要する。身心を柔軟にして、委せきらねばならぬ。恐怖心から硬結すると、法がかからないばかりでなく、無理な衝撃となって害を起こす。
うちこはたまに流れでヨガのアジャストではなく、調整としてヨガ仲間や同僚の背骨周辺に触れますが、受け手の準備や解放というのは、触れる側にも伝わります。なにごとも、信頼関係ができてからね。
<137ページ 神の本能法 より>
ヨーガの行法は、その全般にわたって、「神聖な本能」を、この地上に再び掘り出すものなのだ。ヨーガの本能体操も、じつにその一つである。
率直にいえば、本能法さえ習得していれば、体位法などの人為的体操法は、無用の長物になる。栄養本能に徹底すれば、栄養学などは、有害無益になり果てるのと同じだ。ヨーガの先達たちが、みずからヨーガ体位法をしているのを見たことなし、というのも当り前である。聖本能のままに体を動かしていれば、それがそのまま体位法以上の効果を出すからだ。
この「本能法」って、うまい表現だと思う。
<141ページ 交通地獄の解決法 より>
事故の原因は、錐体外路系訓練が弱かったためだけではない。精神的無意識界の問題がある。表面意識が、どんなに衝突しないと努力しても、潜在意識が、反逆していたのでは、どうにもならぬ。自分を見下し、人を見下し、暗い感情をもっていると、潜在意識は、「自己処罰」を懐くことになる。何かの形で自己懲罰したくなり、その機会を探す心理に陥る。人生一般の不幸というものは、例外なく、この潜在意識の所業である。誰でも、幸福になりたいと願いながら、不幸な人が多いのは、潜在意識が暗いからだ。
これ、ほんと同感。うちこはこのへんのことをヨーガをしない人にも話せるように心理学の本も読むようになったのだけど、心理学100%サイドで見てみると、心理学として表現していくには心の世界には限界がある。ホリスティック医療の否定にいたっては、「それって世紀末的に智慧放棄」とすら思ってしまう。
<154ページ 双鼻法(スカプールバカ法)── 判断力と内臓を強める より>
大脳は、脚と同じく、左と右とに分かれ、この左右が均衡していないと、判断力が落ちる。荏苒(じんぜん)、無為に過ごして大切な時期を失うのはこのためである。片鼻ずつ吸ってみると、いずれかがより吸いにくいのが常である。それが左右大脳の不均衡を引き起こし、判断力を下げてしまう。この呼吸法は、その不均衡を発見するのに好都合であり、またそれを調整する法ともなる。
これも、ほんと、そうなんですよね。日常的に確認する癖がついてしまった。
<180ページ 海藻 より>
海藻が、陸上植物と大いにちがうところは、全世界をつなぐ海潮が運ぶあらゆる栄養分を吸収する機会をもつことだ。陸上のそれは一度ある地域に根をおろすと、その土地にある材料しか吸えないのだから、連年作が不可能なことにもなる。ところが海藻の肥料は、全世界を相手にしているから、欲しい栄養を一○○パーセントとる。
これだけの説明をしてもらえたら、海藻も踊るわ。ものすごい解説技術。海藻売りの営業メソッドとしても最強。こういう表現する人、好き。
<216ページ ガス腹 より>
肝臓が弱いと、酸素生産が衰えてガス腹となるから、強肝の体位法をする。「アコーデオン法」「ほらあな法」「脚かつぎ法」「ねじり法」などがよい。一日二回、梅干番茶を飲。梅肉エキス、レモン、酢、しょうが、酵素がいい。
薬指を、いつももむ。左脚で、「片脚立ち」をする。
アーサナの名称もユニークです。「アコーデオン法」はいわゆる「ガス抜きのポーズ」、「ほらあな法」はいわゆる「ナウリ」、「脚かつぎ法」は「フォーアングル」とかです。
さて肝臓の問題については、うちこは自分自身が「実験台ヨギ日本代表だいっ!」というくらいに患っているので、よくわかる。(血腫が毎日大きくなったり小さくなったり、固くなったり柔らかくなったりするのが、自分でわかる)
本当に、左脚で「片脚立ち」を強化したほうがいいです。ほかは健康度200%で余っているくらいなのですが、なにげにやってると、どんどん右ばっかり筋力がついてしまうんです。肝臓をかばおうとするからね。
<221ページ 肝臓 肝硬変 より>
「肝に障る」という表現があるように、怒り、恨み、不平の感情は、ただちに肝臓を害す。許し、あやまり、感謝の念に変える技術を身につけることだ。単に、忍ぶとか耐えるのでは、何にもならぬ。心から許せる心境になる。何はなくとも喜べる境地になることだ。それは必ずしも修養になるのではなく、真実を知ることによって可能である。
心の底から治していかないといけないのを百も承知で、目下修行中であります! お酒のせいじゃないのよ。ほんと。
<233ページ 鼻つまり より>
頸椎が曲がっているから、まっすぐにする。硬い枕をあてがう。顎を後ろに引くように習慣づける。頭を後ろに曲げておいて、左の拳で額を十回ばかり打つ。鼻の両側の指圧、小指のもとをもむ。
「背腹法」「猫法」「すき法」「らくだ法」がいい。「足首温冷浴」もたちまち効く。全身の皮膚を丈夫にする「しょうが摩擦」「温冷浴」をすすめる。
ビタミンCの不足であるから柿茶、生野菜。応急手当としては、タマネギのおろし汁を綿にしませて、鼻にさす。塩水を鼻から吸って、口から出す。
首なんですよね、ほんと。すこし引っこ抜くとイビキもおさまる。
ちなみに「背腹法」ってのは、膝を大きく開いたヴァジュラ・アーサナ(まあ、正座な)で、脊柱を左右に動かしながらカパーラ・バーティするようなことでした。
<236ページ 疲れ眼 より>
ときどき遠方を眺める習慣をつける。眼の指圧、ないしは眼のまわりの骨の指圧、内くるぶしのすぐ下のツボの指圧がよい。
番茶、柿茶、食塩、葉緑汁の三倍水などで洗眼し、その後に胡麻油を一滴たらしておく。鷹の眼というぐらいに、いつも鋭い眼でありうるのは、生きものばかりしか食べないからだ。ひまわりの種子など、最も簡単な生きもの食だからすすめる。パセリの生食、パセリを刻んで湯をさして飲む。てきめんに効く。
昨今ガクンと視力が落ちたので、メモメモ。
<246ページ 皮膚(腫もの、湿疹、やけど、切傷) より>
皮膚病一般は、体毒を排泄する相であって、ありがたいことなのだ。これが起こらないと毒死するかもしれない。肝臓と腎臓とは、毒処理に活躍して倦むことを知らないが、機能が弱っていたり、負担過剰のとき、皮膚がその排泄作用を代行しているわけだ。皮膚が、腎臓とよく似ているのは、小便と汗とは、ほとんど同じ成分であることでもわかる。
(中略)
腸を清め、肝と腎とを逞しくすれば、どんな皮膚病でも消えうせる。皮膚は、内臓の現況を教えてくれる掲示板である。皮膚のみを治そうとせず、その原因をただすことだ。
お肌は、本当にそうだとおもう。特に男性はファンデーションを塗らないから、毎日会う人は心の状態がすぐにわかるよ。
呼吸、ガス、血液のつながりを強く意識させてくれる一冊でした。
そして、体重日記をつけるくらいなら、うんち日記をつけた方がよいとも思いました。
沖先生とおっしゃっていることはほぼ同じですが、このかたの解説もとても面白いですよ。(ちなみにギャグはないので、佐保田先生的なアレは期待しないでください)