うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

検索バカ 藤原智美 著

このタイトルを見た瞬間、「人間回復のヨガ本のにおい」を感じ、読んでみました。
ネット社会が作り出した独特の中毒した状態・思考の弛緩・雰囲気で培養される非実践レベルでの同調など、毎日感じることが書かれていました。ほんとうに、毎日感じています。
この本はIT企業で働く人にも、ヨガをしている人にも面白く読めるんじゃないかな。

<3ページ 私も「検索バカ」である より>
 困ったことに現代は、ネットを上手に使いこなせば、すべてが独自の成果であるように見せかけることもできます。もっと悪いのは、ほとんど自分では何も創りだしていないのに、画面上に映しだされたテキスト、画像を見て「わが知的作業のたまものだ」と錯覚してしまうことです。

少し前のユキちゃんの日記にあった「しかし米系サービスすごいって言うだけでメシ食ってる人多いなあ。」という一行を思い出す。


<22ページ 「この本には結論がない」という感想が増えている より>
 パソコンの機能の一つにショートカットがあります。手順を省略して目的にいたる方法ですが、このショートカット的な指向がさまざまな場面に見られるようになりました。
 読書のスタイルにもそれがあらわれています。
 このごろ本の感想で増えているのは、
「この本には結論がない」
 というものです。
 私が最初にノンフィクションを書いたのはもう一○年以上前になります。そのころ、読後感として「結論がない」「だからこの本はダメだ」というようなものはありませんでした。
 この傾向は私の本にかぎったことではありません。どんなたぐいの本にも「結論」を求める読者が多くなっている。大学の先生などと話をしていても、
「こうすれば解決する」
 という「策」が盛りこまれていないからこの本はダメだ、という意見が多くなったといいます。
 そのとき読者がいう「結論」と、つまり「解決策」のことなのです。一冊を読んだら、たちどころに問題の解決策が分かる。それが当たり前だと信じる人々がいる。
 これは一部の読者だけでなく、情報化社会全体を包むひとつの「気分」になっています。

解決策だらけのベストセラーがいっぱいあって、「ところで、そんなに解決すべき問題がみんなにはいっぱいあるの?」と思ったりする。整理術を整理しているような。わたしは、こういうのが不思議でしょうがない。問題を認識する前に片付けちゃう感じ。


<91ページ 「予定調和」が意味するもの より>
 予定調和という言葉があります。ほんらいはライプニッツによる哲学用語ですが、それをはなれて一般的には「物事が予定されていた(予測できる)通りに進む」というような意味で用いることが多いと思います。
 たとえば正義が最後に悪を滅ぼす勧善懲悪のドラマや、一番怪しい人間がやっぱり犯人だというような物語に、あるいはシャンシャン大会と呼ばれるような総会などに、「あれは予定調和だ」といいます。
 つまり物事の進行に、あらかじめ定められた目標なり、方向性が用意されているわけです。あの当時、急に浮上してきた「調和」とは、その予定調和のことではなかったのか?
 私は予定調和を
「物事が破綻なくあらかじめ定められたように進むこと」
 だと考えています。
 混乱やカオスを許さない、関係が固定化された安定状態を保つということです。簡単にいうと、予想がつかないようなことはするな、ということ。
 予定調和には、対立や葛藤を排除する力が働きがちですし、異質や違和を取りのぞくベクトルが作用します。そしていまある力関係をそのまま温存しようというふうになります。
 予定調和とは、その場にある力関係、その関係によって自分が求められている役割を嗅ぎとり、そのまま演ずること、ととらえてもさしつかえないでしょう。
 そう、まさにそれが「クウキを読め」ということなのです。

「約束・拒絶なく受け止める場所が存在するからこそ生み出される調和意思」はカオスの中にあると思う。仏教国の日本国民が、ライプニッツさんの「華厳の思想」からどんどん離れて行く。身体開発が退化しすぎかも。


<107ページ キャラによって偽装される個性 より>
 人の内面というのはその場の関係によって、あるいは雰囲気によって動かされるものです。しかし同時に私たちは、それまで生きてきた個人の時間と経験による動かしがたい重しのようなものをそれぞれが抱えています。それが場面によって「違い」となってあらわれる、はずなのです。その「違い」を個性といいかえてもいいでしょう。その差異が私たち自身の手でぬりつぶされる。
 そしていまや、クウキとは個性をキャラに変換する心理的な装置ともいえるのではないでしょうか。

みんな、ある意味本当に器用だと思う。いろいろなダンスを踊れる。


<227ページ 力ある言葉、力ある対話 より>
 私たちはむやみに言葉の力や対話の力などを信じることはできません。言葉そのものに力があるのではなく「力のある言葉」があるのです。対話そのものに力があるのではなく「力のある対話」があるのです。
 人は「考えぬく」という営みによってこそ自分の言葉を獲得し、自分の「生」をまっとうすることができるのです。

「自分の言葉」は、実践で得ていくものなんですよね。
検索ばかりうまくなっている場合ではない。


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