うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

論理療法とヨガとインド

ちょうどインドから戻って10日後くらいだったでしょうか、仕事で二つの単語を教えてもらいました。それは「ラショナル・ビリーフ」「イラショナル・ビリーフ」という言葉。聞きなれませんね。
説明は、とてもわかりやすいものでした。

 レストランに入って、5分も10分も放置されたお客様がいたとします。

そのお客様に、
 レストランに入ったら、ウエイターはすぐにお水とおしぼりとメニューを持ってくるものだ
という、思い込みがあれば、怒り出します。

この、そうでなければ満たされない、という発想になる元である「レストランに入ったら、ウエイターはすぐにお水とおしぼりとメニューを持ってくるものだ」が、「イラショナル・ビリーフ」。


Wikipedia上では、この二つの単語は「論理療法」の説明の中に登場します。

イラショナル・ビリーフは願望(〜ねばならない、〜であって欲しい)と事実を混同することから起こっている。このような混同を論理的に否定し、ラショナル・ビリーフ(合理的信条)へと変えてゆくのが論理療法の役割である。

このお話を聞きながら、少し前にインドで経験したことを思い出していました。いろいろと思うことがあったので、過去の日記にも残しました。「オートリキシャーで1時間の移動。料金上乗せ拒否ログ」という日記です。
必要なサービスは、「約束した料金と時間に対して、それがなされること」でした。ただ、その過程には様々なことが起こり、日本ではまずありえないようなことばかりでした。わたしのなかには、「イラショナル・ビリーフ」の自覚がありましたが、第一に求めていたのは「予想外ではない、慣れた状況を提供してくれるか」ではなく、「必要なサービスが満たされるか」ということ。そこがブレたとたんに、「だからインドは」「二度と来るものか」という発想がわいてくるのではないかと思います。思い込みというよりも、フォーカスのブレではないかと思います(私見)。


さらにWikipediaを読んでいくと、

イラショナル・ビリーフは願望(〜ねばならない、〜であって欲しい)と事実を混同することから起こっている。このような混同を論理的に否定し、ラショナル・ビリーフ(合理的信条)へと変えてゆくのが論理療法の役割である(「文章記述を書き換える」という表現をする)。

ラショナル・ビリーフの例は「失敗しないほうがいいが人間だから失敗することもある。失敗から学ぶべきである」「人に愛される・愛されないとは関係なしに具体的になにかをするべきである。その結果人が愛してくれればありがたいし、愛されなくとももともとである」などである。
端的に言ってしまえば、「〜ねばらならない(must)」ではなく、よりマイルドであると言われる「〜であるにこしたことはない(should)」という文章記述の書き換えである。

という説明があります。


イラショナル・ビリーフに対しては、「置き換え」ではなく、「フォーカスを正すこと」のほうが、なんとなく心身にしっくりきます。これは、沖正弘先生の発するメッセージに近いように思います。そして、沖正弘先生も中村天風先生に師事、というつながりがあります。
この二つのアプローチは、発想転換の手法が違うだけであって、どっちも結論は「元気があれば、なんでもできる」の猪木コピーライトに着地します。これらをつないでいるのは、そう、「丹田」。


世の、特にオフィス街の書店では、マネジメントのメソッド本が所狭しと山積みになっていたりしますが、同じメソッドがヨガの中にもあります。
ここまで女性に層が偏っているのは日本くらいのものじゃないかと思うのですが、こういう場面で、ヨガの思想はまだまだアウェーなのが実情なうえに、「宗教っぽい」と偏見の目で見られたりすることもあります。そうでなければ、エイヤッと癒しやセラピー的なイメージでくくったりされます。

ヨガには、OLとして、ヨギとして、こんなふうに日々学ぶことがあるのだけどね〜。