うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

氷河期世代、多生の縁

お花見シーズンの前あたりから、いろんな人と雑談をする機会が増えています。

あっという間に時間が過ぎたときのことを思い出すと、話した人それぞれが日々自分のなかで起こる葛藤に向き合って過ごしていたことがわかります。

ばちっと明確に言語化していなくても、日常の意識のなかで言語化しようと試みた跡が仄かに残っていて、話している時間は、まるで何かの塔を建てる共同作業をしているかのよう。

他人の言葉を安易に借りずに、自分なりに抱え続けてきた個人の胆力が静かに集結する瞬間です。

 

 

ガンダムが立ち上がらない。燃え上がらない。操縦方法は知っている。

先日、わたしが友人に

「仕事でちょっとした資格を取らなきゃいけなくて、本を買うほど難しいものじゃないし、むしろ以前の自分だったらゲーム感覚で攻略しに行ったようなウェブ系の資格なんだけど・・・」

という話をして

「操縦方法は知っているけどガンダムがスッと立ち上がらない、みたいな感じなの」

と言ったら

 

 

 

    それ!!!

 

 

 

と首をブンブン縦に振られました。

友人もちょうど同時期に似た感覚を持つことがあったそうで「新部署の立ち上げの話をされて、ぜひエントリーして欲しいくらいの感じで誘ってもらえているのだけど、なんかスッと行こうとしないんだ。自分が(笑)」と。

 

 

 

    立ち上がらない、燃え上がらない

    (と言いながら、燃え上がれ燃え上がれと歌い出す中年)

 

 

 

という花見の時間がありました。

 

 

キャリアってなんだ

40代も終盤になると、以前は全然違う仕事をしていたという人もいるし、子育て期やハードワーク期の記憶がないとか、ほかにもいろんな物事との自己同一化の時期を経て、過去の自分について距離を置いて穏やかに話す人が少しずつ出てきます。

 

ずっと同じ業界にいても、仕事はどんどん変化します。

「わたしがあの頃仕事にしていたスキル、そもそもこの世で全く必要ないからね。ネットスケープナビゲータもIEもないもん」と言ったら友人に爆笑され、キャリアってなんだろうねという話になりました。

結局は精神と存在の安定感、前提や文脈の読解力じゃないかと。いま何を担うことができたら周囲の役に立てるのかを読む力、のようなもの。

 

そのあとその話をしていた友人が「そういえば前にこんなLINEスタンプを買っててさ、これを買ったときの自分はヤバかったと思うんだ」と、買ったスタンプを見せてくれて、「ああ・・・、荒ぶっているね。なんかノリを間違えている感じがする」と話しました。なんだかとっても挑発的なイラストでした。

そういう時ってあるものです。

 

 

家事はスキル

自粛生活を経てそこから戻っていく変化が見えてきたなか、わたしはなんと今さら、手作りおかずを作り置きする料理をはじめています。

以来、家事のほうがよっぽどスキルだと思うようになったのですが、その話をすると同世代の人がいろいろ教えてくれます。わたしが最近知って感動した料理家さんの名前もすでに知っている先輩たちが身近にいたことを後から知って、自分はそっち方面に対して目が向いていなかったことに気がつきました。

 

2020年の緊急事態宣言の頃まで、毎日午前9時に自宅にいる生活をした経験がありませんでした。午前の時間帯の光がいちばん家の汚れを見せつけてくることも中年になってから知りました。

先の「キャリアってなんだ」の件と重なるのですが、近頃は家事のバイトのほうがPCを使う単純な仕事よりも時給が良かったりします。居心地の良い場を回していくことって、パラレルにワーキングメモリを稼働させ続けるスキルなんですよね。

 

 

日々の小さなコンフリクトのこと

職場の関係、夫婦の関係、子供同士の間で起こることなど、日常には小さなコンフリクトがたくさんあって、内部で解決していくしかないことがあります。

なんとかその場を収めた後でも、これでよかったのかなと思わないことはなくて、だからと言ってそこを凝視し続けるとキャパ・オーバーしてしまうこともわかっています。

 

「いまの子供は思っている以上に大人です」って学校の先生は言うのだけど、どうなのか・・・と話す人に、「大人って、社会の仕組みを知っているってこと? それともエゴを抑制できるってこと?」「前者でしょう。後者はないんじゃない?」などと複数名で話す時間は、大切なことを考えるきっかけになります。

 

 

自分が不安定だった時期のこと

不安定なときに買ったLINEスタンプを見せてくれた人もそうなのですが、「またいつ自分にそういう感じがやってくるかわからないけれど」というスタンスで、経験と自己観察をした者同士で話す時間には、なんともいえない静かな連帯があります。

心配ばかりしていてもしょうがないとわかった上での雑談です。

癒しでも回復でもなく、こういうのって、なんだろう。答えがないって認めた状態で、7割くらいまでの答え合わせをする時間そのものに、言葉にできない感謝の気持ちのようなものが湧いてきます。

わたしはこれを氷河期世代、多生の縁」と思っています。

 

 

 

こういう雑談をするたびに思うのですが、他者に自分の途中の思考を話せるようになっておくのって、これはこれで修練で、自分自身の心を扱うスキルだなと思います。

虚栄心が肥大化しているときにはできないことなのでね。

 

 

 

気軽な食事と雑談ができる場所を開拓しておかねば。

(アジアの定食とか、ちょうどいいのよね〜)