このような考え方はある種の誤解されやすさをまとってしまうだろうと思いながら読み進めました。ある種の誤解されやすさというのは、わたしがクラウドファンディングのレポートを見て思ってしまう「この人たちは大人になってから文化祭をしたかったのか。他人の金で」という性質の誤解。この本の著者にも似たものを感じるのだろうか…と思いきや、そんなことは全くありませんでした。なぜか。それはきっと、以下の順番がよいから。
- 根本思想があること
- 独自のフィールドワークを経ていること
- 言葉選びのセンスがあること
- 実行力があること
- 現実と折り合っていること
根本に不動産という概念への疑問があって、ホームレスの生活を見てがっちりスクワットを重ねての、言葉選び。そこには圧倒的なセンスがあって、行動力もある。その行動のタイミングは自らの躁鬱の躁に重ねてあって、鬱はまるで仕込みの時間のように捉えられている。そしてそこから外へ広がっていく。行動することが生きることだといわんばかりに。
不動産というものへの疑問はわたしも子どものころからあって、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んで、「そうそうこれこれ!」と思ったことがあります。以下の部分です。
自分が製造しておらぬものを自分の所有と極める法はなかろう。自分の所有と極ても差し支えないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。この茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某々所有地などと劃し限るのはあたかもかの蒼天に縄張して、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観によりて、如是法を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入って行く。
(「吾輩は猫である」 四 より)
猫には関係がないもんね!とばかりにニャーと言いながら近所のおうちの敷地へも入っていく。そしてそのおうちの人々の "正義" も紐解いていく。あっちのおうちとこっちのおうちの人々の双方勝手な価値観をあばいていく。上記の引用のように、序盤ですでにその意向が示されています。
この本の著者も、現代の言葉で猫と同じように語ります。
「所有して嬉しい」という「感情」は一体何なのだろう。
(第2章 プライベートとパブリックのあいだ 不動産を所有して嬉しいか より)
この疑問を抱くとき、土地とか家というのは最もシンプルな題材。自然災害が増えるほど考える回数が多くなっていくであろう概念。
わたしは居場所(その空気も含めて)をがっちり所有できると考える人をどこか信頼できないと思う瞬間があるのだけど、その理由はまさにこの本のなかにある「態度経済」の面で見た不信感から派生するもの。この本に出てくる「態度経済」という言葉はあらゆる表面的な「いい人っぽいふるまい」の皮を剥がしてしまう。「好きなことで食べていく」というフレーズとともに目にする自己啓発とは違う思想が感じられ、労働に対する嫉妬や恨みのエネルギーではないところがいいなと思いながら読みました。
後半で語られる躁鬱の状態の自己分析も読み応えがありました。わたしは躁状態の制作時期とリリース後の燃え尽き症候群期を繰り返す職場環境に長くいたことがあったので、ひとりでいろいろな経験の残骸を接続するような時期も、いま思うと必要な作業であったと思うことがあるのです。好きなことをしているときほど、印象を整理する時間が種まきになる。そんなふうに思うことがあるので、躁鬱との付き合いかたの部分も大変興味深く読みました。
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