うちこのヨガ日記

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ラーマの質問の性質に、自分とのベースの違いを実感する/『ヨーガ・ヴァーシシュタ第3章の再読

昨年から読んでいる『ヨーガ・ヴァーシシュタ』について書きます。昨年は一度目の読書で、今年は再読をしています。

第2章の終盤でヴァシシュタ仙が「ラーマよ。個人的に体験されていない真理について説明されたとき、人は寓話の助けを借りて把握するしかない。」と説いていた通り、第3章からは多くの寓話が語られ、7つのお話があります。


この章では、修行に励んでみたけれど鬱になったラーマ(第1章)と、自身の鬱経験を告白したヴァシシュタ仙(第2章)のやりとりが、ぐっと濃くなっています。
ラーマの質問のエモさというか、答えを渇望するその訴えの強さに、「お。なんか王子、ちょっと元気出てきたね」という感じがする。
そのラーマの質問がいちいち興味深くて、自分にはない土台だなと感じます。日本で生まれ育った人がインド思想に触れるときに、そもそも前提としてこういう発想が自分になかったことに気づきます。


質問の部分だけを抜き出すと、こんな内容です。
この章は「創造についての教え」の章で、ヴァシシュタ仙は創造について説いているのですが、その間にラーマからこんな問いが入ります。

 どのようにして神を実現するのでしょうか? どうすれば私たちが実在と見なしている宇宙が非実在であることを認識できるのでしょうか?
(36)

 

 賢者よ。どうしてそれは空ではなく、光ではなく、暗闇でもないと言えるのでしょうか? あなたはそのような矛盾した表現で私を混乱させるのです!
(39)


と、こんな調子です。
「どのようにして神を実現する」なんて発想は、大人になってからの自分のベースにないものであったことを、第3章の36を読んだときに気がつきました。子どもの頃は、そういう気持ちが少しはあったように思うのだけど、忘れてしまった。

 


39のような逆ギレみたいな尋問もいくつかあって、それにヴァシシュタ仙は根気よく答えていくのですが、たまにイラっともしています。(←ここ好き)
リーラーの物語」という寓話を話している途中でラーマが差し込む質問にヴァシシュタ仙がイラっとしつつも物語の語りに戻る流れ(60)などは興味深く、ラーマの空気を読まない熱意にも驚く。

 

 

そしてこれを根気よくやっているうちに、後半では確実にラーマの質問力が上がっています。

 賢者よ。もし実際には無知が存在しないのなら、なぜ解脱や探求について心を煩わされなければならないのでしょうか?
(67)

探求者である自分としての質問ではなく、その殻を脱いで、それを煩わしいと思っている自己を見てる。素直になるというのは、こういうことなんだろうなと思う。

 


さらに第3章のおもしろいところは、物語を説いているヴァシシュタ仙が、物語のなかのブラフマー神に質問を投げかける、質問者側になるところ。
ヴァシシュタ仙はブラフマー神にこんなことを尋ねます。

 主よ。賢者の呪いがインドラの身体だけにかかり、心には影響を与えなかったのはどういうわけでしょう? もしも身体が心と異ならないのなら、呪いは心にもかかるはずです。
(82)

さすが師匠。質問が的確! それにしっかりブラフマー神も回答します。
第3章は質疑応答のバリエーションがとても興味深く、物語を語りながらその内容への質問を受け付けていく、そんな形式。


82の質問のきっかけとなっている、インドラにかけられた呪いの話は、不倫の話です。インドラは不品行な美男子。妻の心を美男子に奪われた王が聖者に呪いをかけてもらうのですが、愛し合う二人の身体は破壊できても、心は破壊できない。

どんな話だよ! というおもしろさ満載のエピソードです。

 


この他にも第3章からはユニークな物語が続々登場します。わたしがラーマなら「ヴァシシュタせんせー! 寓話の設定がおかしすぎて、真理に到達とか解脱とか崇高なことを言われても、目先のおもしろさに翻弄されてしまいます。なぜそのようなネタ話でわたしをニヤニヤさせるのですか!」と訴えてしまいそう。

こういうのは逆ギレと言わずに、なんというのでしょうね。とにかく第3章はおもしろいです。