うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集 岸本佐知子(翻訳)

ひとつひとつの話のインパクトと感覚的な表現へのおどろき、そして半分くらい読んだあたりから見えてくる著者ルシア・ベルリンの人物像。序盤・中盤・終盤でまったく違う気分。短編集なのだけど、これは構成の妙というか順番の効果もある気がします。だんだんその思考の背景が明かされていく感じ。


24編収められている短編のうち、著者がアルコール依存を克服している時期(スリップしていない時期というのか)に書かれた作品はわりと長めで、なかでも「さあ土曜だ」はミステリーのような要素もあって、面白くてすぐにもう一度読みました。
「今を楽しめ」という、女性がコインランドリーで失敗をしてその場にいた男性から詰められていく話は、カラー映像が目に浮かぶようにリアル。ヴィンセント・ギャロの映画みたいな世界が脳内で展開する。恋人がいても家族がいてもひとりじゃなくても、なんとなく少し死にたそうな自暴自棄な空気が漂う。
「どうにもならない」は早朝から飲まずにはいられないアルコール依存症の心境と日常が淡々と描かれていて、この短編を読んでいた頃(本の中盤)はどうしても子ども側の立場に共感してしまって読むのがつらかったのだけど、後半になると著者の祖父も叔父も母もアルコール依存症で、生い立ちが見えてくる。


この著者は「恥」の感覚をよく観察していて、そのプロセスとして「書くこと」があったのかもしれない。「恥」を分解できる能力が最終的に自分自身を救ってたように見えました。

著者は「恥」を分解しきったあとに、「欲」を突き止めた。以下の部分を読んだ時に、そう感じました。

 ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。狂っていたの、それとも見えすぎていた? どちらにしても、あなたみたいになるのは耐えられない。わたしはいま恐れている……だんだん美しいものや正しいものを感じられなくなっていくようで。
(「苦しみの殿堂」より)

ママもお祖父ちゃんも、たぶん自分のしたことをこれっぽっちも覚えていないんだと気づいたのは大人になってからよ。記憶喪失は神様が酔っぱらいに与えた恵みね。自分のしたことを覚えてたら、恥で死んでしまうもの。
(「ママ」より)

ああこれだ、とわたしは思った。わたしは自分が悪くないときに母に自分を信じてほしいだけではなかった。たとえ悪いことをしたときでも、自分に味方してほしかったのだ。
(「沈黙」より)

著者と妹の関係を読むと、大人になってから仲良くなれるのが不思議なほど母親と祖父母から幼少期にえげつない性的・精神的虐待を受けています。

この本を読んで、わたしはもしかしたら「仲間が欲しい」という感情は想像以上に大きな力を持つものなのかもしれない、そんなことを考えるようになりました。著者は姉として虐待から妹を救わなかったことを別の家族から責められているけれど、妹は大人になっても姉を頼ってきて、虐待の記憶をすり合わせることをしません。ここがすごくリアルでいいんですよね…。大人から自分がされたことを妹もされている状況のなかで沈黙していたことを、「守らなかった」「傷つけた」と恥じなければいけないのはどうして? と考えるのはおかしなことでは決してないと思うから。


自分がつらい目に遭うと「自分と同じ目に遭う人がいないように」と奮起する人がいるけれど、この本の著者はその中間をしっかりちまちまと書く。ここを大股歩きですっ飛ばさないところがいい。わたしは自分がされたのと同じひどいことを他の人もされていると「ああ、やっぱりそういうものか」と捉えます。激的な怒りは立ち上がってこない。この本を読んだら、「それでもいいんだ、ひとまず生きていれば」と思うことができました。同情を受けるために借りてきたような怒りを発動させたり苦労をそれらしく演出するのは疲れる。だからといって、大げさに絶望なんてしなくていいのです。

 

この短編集のタイトルにもなっている「掃除婦のための手引書」は、諦念と軽やかさが同時に走る感じがすてき。

 全部をちょっとずつまちがうと、仕事がていねいだと思ってもらえるだけでなく、奥様がたも心おきなく "ボス" になれる。アメリカの女は使用人を使うことに後ろめたさを感じている。家に使用人がいると、どうしていいかわからなくなる。ミセス・バークもクリスマスカードのリストをチェックしたり、去年の包装紙にアイロンをかけたりしはじめる。八月だというのに。
(「掃除婦のための手引書」より)

みじめに見せておくとかバカに見えるようにしておくとか、計算しながらやっている。アメリカにもいろんなアメリカがあるんだな。こういうアメリカは嫌いじゃいぞ、と思いながら読みました。