うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

うらやむ対象を定められずに漠然とあせるマインド

映画版「桐島、部活やめるってよ」を観ていたら、少し前に友人と話したことを思い出しました。
なにげない会話のなかに感じる、粗雑な関心を向けられたときの反応のむずかしさ。友宏という人物の話しかたが、わたしにそれを思い出させました。


原作では記憶に残らない人物だったけど、あらためて描写を探してみたら、RADWIMPSが好きで見た目が良く、ブラスバンド部の部長をかわいいと思っている帰宅部男子の一人。カラオケへ行けばモラトリアムばかり主張する歌詞の曲を速攻で入れ、そこそこの音程で歌うと書かれていました。

名前すら覚えていなかったこの友宏という人物が、映画版では妙に目障りで気になりました。「かわいい」と思っているはずのブラスバンド部部長のことを、”残念な女子” として噂話の材料にしている。少し意地悪な視点でその人格が要約されていました。


話を冒頭に戻しますが、わたしは少し前に、"いっけん褒めているかのようで蔑まれている気もして反応に困る声がけ" について友人と話したことがあります。
具体的にはこういう言われかたをしたとき。どれも何年も前の例です。

  • あなたはパソコンができるから
  • あなたは英語がわかるから
  • あなたには考えを発表する場があるから

スマホや翻訳アプリが進化した今の感覚で読むとピンとこないけれど、ツールや場を使うに至るまでの過程を想像してくれない人は(=相手の中身に興味のない人は)、○○さえできれば自分も同じことができたという口ぶりで話すので、まあなんか、当時はちくっときたのでした。

上記の例のなかでも、最後の「考えを発表する場」はこのブログのことで、別にここは誰かに作って育ててお膳立てしてもらった場所ではないため(自分で設定してコツコツ書いてきた)、反応に困りました。なんかいけすかねぇって感じなのかな(わたしが生意気に見えるのだろう)と思いました。

 

 

でね。

この映画を見たら、そういう発言に至る気持ちが少しわかった気がしました。淡いうらやましさって口に出す必要もないことがほとんどだし、感情に「いけすかねえ」が含まれているものを無理にポジティブにコーティングしようとすると、ねじれちゃうんですよね。 

 


映画版「桐島、部活〜」の友宏も、友人同士のなかで漠然と会話を回そうとして、とりあえず会話が成立していればいいと考えて、おかしな発言を繰り返します。それがもうデフォルト化している。

この人物を客観的に見せてもらえたことで、これまでわたしが返答に困ったよくわからない声がけの背景が見えた気がしました。

 

 

わたしは菊池のように「結局できる奴にはなんでもできて、できない奴はなんにもできない」とは考えないけれど、その時点の菊池に世界がそう見える気持ちはよくわかります。でも菊池はなんとそこから「続ける人とやめる人」の境界に気づいていく。


友宏は「○○さえできれば」「○○さえあれば」と考える。ずっとそのまま。それを手に入れた後でどうするかまで考えていないから、手に入れたところで別になんでもないと菊池に言われて漠然とあせる。こっちのほうが、なんかリアルといえばリアルです。

友宏が大人になって瞑想のクラスに参加したら、「サンカルパ 例」ですぐ検索しちゃうんだろうな。

 


映画を観てしばらくたってから、菊池と友宏の「うらやみかた」の対比が沁みてきました。自分で自分のなかにある菊池性や友宏性を見たときに抱く嫌悪感に名前がついた。映画って、微細なレベルで情報を伝えてきますね。

 

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