うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アップデートを個人の意識に対して求める響きの捉えにくさ

最近、「アップデート」という言葉がどうも残酷に響いて気になることがあります。
はじめは、まるで人間を機械のように扱っていて「劣化」と同じように聞こえるからかな・・・と思ったのですがそうではなくて、意識を塊のように扱うことにイメージが追いつきません。

 

人の発言をあげつらう時と、仕組みを変えたほうがいいという議論をする時、どちらの場面も話題をクロージングするのに便利なカタカナ「アップデート」は使えそうでいて、実は後者にしか使えません。プログラムやシステムに対して使う言葉だから、やっぱり人のことではない。
長く生きている人に昔の考えが残っているのは当たり前。だって記憶があるんだもの。その記憶の保持のしかたの問題を指摘するとき、そこは「執着を捨ててください」いうことなのだと思うのですが、それを「アップデート」と言われると、別の執着のしかたを探してしまうのではないかしら。

執着を捨てることへの必要性は、もういい加減それに満たされて飽きた、くらいでないとやってこない。まだまだこの状況にいたい!という気持ちがある人には、結局のところは腹落ちしないだろうと思います。

 


例えば「女性は話が長いから会議の場にいないほうがいい」という思考の癖を持っている場合、その人なりの記憶と経験が条件付けを固定化させているのだと思うのですが、「A:女性はいないほうがいい」と「B:話は短いほうがいい」を紐づける思考への執着を捨ててくださいというところから始めないと、AかBのどちらかを保持したまま他の方法を探り出してしまいそう。じゃないですか?
「だからそれをアップデートって言ってるんだけど!」と言われそうですが、わたしはこんなふうにちまちま段階を分解して理解していかないと、自分でそれを認識できません。

 


さらに思うのは、同じ立場で(存在のしかたを奪われないまま)その人が自らの思考・判断プログラムをどのように要件定義してアップデートしたのかを示したり、あるいは自分の判断の偏りを補正する方法を(組織を変えるなどの)仕組みの面でどう解決しようとしたのかを示す時間を与えられないまま、首のすげ替えでひとまず鎮魂の儀式みたいなことが繰り返されるのって、長期的に見たらかなり夢がない。

 


こういう場面を見るたびに思うのは、わたしは常日頃「支持する人物に求める思考の性癖」のようなものを考えているだろうかということで、それを自分に問うとパッと言葉が出てきません。
ここで固有名詞が出てくるようでは、自分の思考のシステムがアップデートどころか、そもそも構築できていない気もします。
そんな逡巡を繰り返していたなかで、先日「マイ・インターン」という映画を何度も観ながら、そのに登場するベンやフィオナのような年長者が素晴らしく見えるのはジュールズがいるからで、そしてジュールズが安心して力を発揮できるのはベンやフィオナがいるからで……と思うと、この状況を作り出しているキャメロン(重役)のような存在が機能していることがとても大切だということに気がつきました。


そもそも「支持する人物」という考え方が限定的すぎるんですよね。「支持する人物」←を支持する人物←を支持する人物というふうに、意識の共通点やその拡がりかたまで、いつも見通せるとよいのだけど。
ちょうどいいタイミングでこの映画を観て色々考えて、そんなふうに世の中を見ようと思うきっかけになって、視野狭窄気味になっていた自分に気がつきました。

 


ほんと、この映画は前向きな気持ちになれて、ええのよ〜。