うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ザビーナ ― ユングとフロイトの運命を変えた女 カシュテン・アルネス著 藤本優子(翻訳)

同じ課題にくり返し取り組んでる同士の関係が恋愛に発展していくということは、わりとよくあることじゃないかと思う。
頻繁に会うことで記憶の容量が増えて親しみの感情になったり、課題に対する集中力が共鳴することで脳の働きがシンクロすれば、最高の相棒!みたいな雰囲気になったりする。自分の中の検閲機能を解き放てば、そういう発展はよくあるものだと思う。だからこの小説に書かれている恋愛に意外性はないといえば、ない。
不倫となるとコトはやっかいだけど、それは社会面でのやっかいさで、心の根っこの化学反応のようなものは変わらない。この物語がとんでもなくややこしいのは、双方が人間の深層心理に潜りこむ頭脳を持った男女で、立場と優劣の関係が複雑に入り組んでいること。そして男性がのちにカリスマと言われるほどの人物となり、事実をもみ消すこともできたであろうこと。そんな悪い意味でのややこしさはあるものの、それにしてもすごい時代の話だと思う。

 

この本はザビーナ・シュピールラインという精神分析医の生涯が小説の形で書かれています。1977年にジュネーブの元大学地下室でザビーナの日記と手紙が見つかり、急に解明が進んだそうです。ザビーナは第二次世界大戦中にドイツ軍に殺されてしまったために、資料が見つからなければ掘り起こすのがむずかしかった人。
見つかった書簡の相手はユングフロイトで、ザビーナはユングの元患者であり愛人。そしてのちに精神分析医としてフロイトの評価も得ていきます(この展開がすごい)。フロイトとザビーナはユダヤ人であるという共通点を持っていて、フロイトが築いてきた「精神分析」という概念を残していくためにユングに期待をかけていきます(フロイトユングゲルマン人と表現する場面があります)。

この二人の間で、ザビーナは恋愛感情と学問への意欲を思いっきりごちゃまぜにしながら生きている。フロイトのもとで評価が上がっていく間も、いつまでもユングへの思いを引きずっている。ザビーナの執着とユングのずるさ、どちらに肩入れして見ても双方が重い。

 

小説は資料をもとに書かれており、登場人物の関係性に当時の戦争による弾圧と人種差別の背景がからみます。ひとりの女性の生涯を追いながら第二次世界大戦中のドイツ・スイス・ソ連の状況、そしてヒトラースターリンの関係に翻弄される精神分析という学問がどのように脅かされていったかも同時に説明されます。
仲間がどんどん追い詰められ殺されていく迫害の様子はとても恐ろしく、なんとか助かってくれ…と途中で読むのを止められない。この時代背景とザビーナの鋭さ、フロイトユングに与えたインスピレーションの性質を、著者は小説の形でみごとに組み立てています。章立ても物語の進め方もよく練られていて、最後に時間軸が合致する瞬間に悲劇の重さものすごい手ごたえでやってくる。
ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」はユダヤ人の精神科医強制収容所で体験した出来事が書かれていたけれど、ザビーナの場合は逃げて逃げて逃げて…、でももうどうしようもなくなってしまう。


さて。それにしてもです。
恋愛感情と仕事(精神分析)をまったく切り分けないザビーナの思考は今の感覚で読むとなんとも異様なバランス感覚です。この人は被害者意識の中にある生命力に、自分で気づく。不思議な強さを持った人。
以下は、失恋を認めたといえる場面のモノローグです。

 ようやくすべてのことがはっきり理解できた……。そんな気がした。だが、夜の冷気が木の葉と土の香りとともにザビーナを包みこんだ。ザビーナは自分が生きながらえるために闘おうとしているのだと気がついた。毎日のように考えていることとは別の答えを、自分は導きださなければならない。欺瞞を見破り、自分の生命を守ろう。自分は宙を回る車輪なのだ。惨めな蟇蛙だ。ぼろぼろにすり切れた長靴だ。歪んだ鍵だ。未完成の楽譜なのだ。
 だが、みずからの命を絶つような人間ではない。
(173ページ 17より)

「毎日のように考えていることとは別の答えを、自分は導きださなければならない」という部分が強く印象に残りました。セルフ・コントロールの必要性を感じるときって、まさにこんな感じだなと思うのです。

 
ザビーナが直接フロイトと関わるようになってから、物語はどんどん深みを増していきます。以下はザビーナとフロイトの会話の場面。

プロパガンダが使用する言語というものに、私はとても興味があります。言語が潜在意識まで到達し、最終的にそれを耳にした人間の行動やものの考えかたを左右するまでになる。それはつまり、言葉の表面的な意味が原因となってある種の行動を導きだすのではなく、言葉の裏に隠された記号的なものによって人が支配されるということなのだと思います」
「わかりますよ、シュピールラインさん。ユダヤ人である私たちが精神分析についての解釈を打ちたて、かつ理論として定着させるためには、ユダヤ人についての中傷的な言語に毒されていない場所を選んで発表する必要がある。そういうことですかな?」
「そうです。博士はそうお思いにはなりませんか」
「たしかに、私たちの共通の知りあいであるカール・ユングこそ、精神分析の進歩において中心的な役割を果たしてくれるのではないかと考えたことがあります」
「新しく精神分析の国際的な機関を設立し、彼をその組織の会長に任命したのは、そのための第一歩というわけですね」
「まるで私の考えをそっくりお読みになったようですな、シュピールラインさん」
(230ページ 21より)

このあとフロイトアドラートロツキーと縁を切ってせいせいしているという話をして、それはお言葉が過ぎるのではとシュピールラインが返し、私は舵がどいういうものかを知っていてこれから大変な時代になる、不吉な予感がしてたまらんとフロイトが話します。
この対話がその後の変化の伏線になっていて、この物語は書簡や資料、取材をもとにしたフィクションではあるのだけど、時代を知る上ではすごく意味のある会話の流れになっています。

 
ユングに対する以下のような物言いには、なんともいえぬ魅力があります。

 ユングフロイトの「抑圧」についての解釈は異なっていた。ザビーナはユングにこう手紙を書いていた。あなたが正しいのだから、それでいいではありませんか。不快で受け入れがたいことを人は「下意識」へと抑圧する。その心理的な働きに重点を置いたあなたの見解こそが正しいのです。それも「拒絶したいことを無意識に押しやり、永遠に忘れ去ろうとする」と言わずに「下意識」と強調した点があなたらしい、と。
(305ページ 23より)

もともと患者で愛人であった後輩に、「あなたらしい」と評されているユング。手紙の部分は証拠に沿って書かれているので、ここはザビーナの人格を表している部分とみてよいと思います。


中盤以降は、今後迫害されていくことがわかっているユダヤ人同士の関係・対比から目が離せなくなります。以下は同時期のフロイトとザビーナ、それぞれの描写です。

 もちろんフロイトの思想は、戦争からも大きな影響を受けたはずだ。人の精神の中枢における攻撃性というものを、彼はより具体的にとらえるようになっていた。フロイトによると、人間は自分の身近な人物たちを「自分に対して力を貸してくれる存在」あるいは「性的な対象」としてとらえるだけでなく、みずからの攻撃性を行使したいという欲望の対象としても見るのだという。それは一種の代償行為であり、その代償行為によって人は破壊衝動を発散させるのだ。フロイトは強姦や近親相姦が多い理由をそう説明した。
(310ページ 23より)

 この時期のサビーナは自分をとても不幸な人間だと感じていた。しかしそういった個人的な鬱状態とは裏腹に、人間のことを破壊をもたらすだけの不幸な存在だと考えることはなくなり、逆に、人間の不安の元凶を取りはらうことで、破壊衝動を乗り越えることができるはずだと思うようになっていた。
(311ページ 23より)

人と人が争う行為の中から見出すものが、それぞれ違う。

 
終盤はどんどん読むのがつらくなります。故郷ロストフで社会が思想の弾圧にまで至る過程の、療養中のザビーナと同僚ジブシノ教授の会話がとても印象に残りました。

 シブシノはザビーナに愚痴をこぼした。チェルネンコ教授という人物が新しく精神科の責任者となり、絶えず自分の仕事の邪魔をし、精神医学はホモ・サピエンスが理性に満ち建設的な存在であると考えるようでなければならないとしつこく繰りかえしているのだという。彼は人間が矛盾に満ち、感情と内在する衝動に左右される存在であるとする考えかたの系統からはっきりと距離を置いていた。
 チェルネンコ教授は精神分析医の存在も許容する姿勢をとっていたが、それは分析医たちが唯物論の正当性を認めていることが前提であった。要するに精神分析医たちは、精神的な苦痛は物質的かつ具体的な要因によってのみ起こりうるという考えかたを認めなければならなかったのである。 

(402ページ 25より)

苦痛からの解放を追求することと人間の心の豊饒さを否定することがイコールになってしまう思考って、パニック時に起こりやすい集団心理なのかな。


人間の心を社会の方針で定義しようとしていく流れがあるなかで、意志を持つ人の思考がどのように消されていったのか、考えるだけで恐ろしい。想像以上の壮絶さでした。思いっきり物語に引き込まれながら第二次世界大戦時のアカデミック世界を感じることができる、有益な情報の多い小説です。