うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

信じることと、疑うことと なだいなだ 著


1985年のエッセイ集です。このかたのエッセイはどれも昔書かれたものなのに、今読んでもあたらしい。古くないのではなく、あたらしい。
どのエッセイも "気づく人は気づくけれど、気づかないままいければ、それはそれで死ぬまで気づかないならばしあわせ。でも考える体力がなくなってから気づくのはしんどい。だから考える力があるうちに自分の中にいちど落とし込んでみたほうがいいよ" といような、そういう性質のことを書かれているように見えます。

普段ざーっと日常を送っていると、実はオリジナルの感情を発動していることなんてほとんどなくて、演じているような気がしているけど実は中の人なんていない。世のニュースに反応しようにも、誰のトーンに便乗するかを選んでいるだけ。そしてその便上の理由すらもどこかいい引用元がないかなと探す。そこに気づいてハッとする。認識と理解と思考のスクワットも練習もせずにちゃっかり「意見」なんつって口を開こうだなんて、なんて自分は欲深いのだろう。からっぽのくせに。ばかめ。
いまはそんな自分のからっぽさにツッコミを入れることができる。わたしがここにほとんど時事ネタを混ぜないのはまさにこんなツッコミをひとりで何往復もするのがしんどいからで、ニュースなどを聞いているとずっとこれはどういうことかと考えたりする。みなさんはどうですか?

1985年のエッセイなので、戸塚ヨットスクールオウム真理教の話が出てきます。当時テレビではひたすら反応を起こしやすい、インパクトのある映像や音が流されていたけれど、いろんな「正義」があった。そら、あったんだよね。当時とくに反応をしなくてもよい子どもで済んでて、よかったな。いまは大人になってニュースを見ている。陰謀論の好きな人が飛びつきそうなニュースはいまも変わらずあらわれ続けている。わたしはそのたびに、ずっとこのエッセイを参照し続ければよい。バッティングセンターの永久会員証をもらったような気分になる一冊。


こんなことが書かれています。

 どうしても、説教くさくなりますが、一市民の自覚を持った人間は、自分が他人を「分かろう」とつとめることが必要です。全員が分かろうとつとめれば、自然と分かってもえらえることになる。それがあまりにも理想論すぎるとしても、せいぜい「分からせよう」という努力をするところまでであきらめなければなりません。決して「分かってほしい」と甘えないことです。
(『「うそ」が信じられる時代』より)

 自分を持たない人たちは、自分の行動に責任をとろうとしません。皆のやることを真似しようと思います。皆もやっているんだということを、自分の行動の基準にしようとするのです。各人自分の正しいと思うことをやれと言われると、当惑してしまう。それで、裁判などが起こって、これまで自分のしてきたことが、罪に問われる可能性が出てくると、自分の行動を一般論的に決めて欲しくなる。
(『公平と不人情について』より)

人の話が演説のようにノンストップで話を続けられるのは、引用フレーズのように組み合わせたラップであるから。わたしは人の話を聞きながら、そして自分で話しているときも、それがずらずらずらーっとつながるときに「この人(あるいは、わたしは)、自分がなくて不安なんだな」と思うことがあります。分かってほしくて甘えているな、とも。これを卒業したくてずっとヨガをやっているようなものです。

このエッセイ集はそういう瞬間に起こっている自分のなかの「ずるさ」をやさしく紐解いてくれるような、そんなお話ばかりです。



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