うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

黄色い家  川上未映子 著

三ヶ月間の長い海外旅行をしたことが一度だけある。

インドでヨガの道場に入って勉強中心の時間割だったけど、その前後に数日間旅行もできた。いまでもたまにその頃のノートを読み返している。

その道場は9月の連休で行った旅で見つけ、年度末に消える休みを使ってまた行って、10日間ほどの二度の旅行でいっきに親しんだ場所だった。その数年後にわたしは社会人になってからはじめて仕事をしない期間を設け、家のことは福祉サービスの人に助けてもらって三ヶ月間をその道場で過ごした。

いつかそうしたいと思っていたことをやったというと前向きに聞こえるかもしれないけれど、同時に、なんで決行できたのだろうとも思う。ずっと土台は緊張していた。

 

 

その後わたしはまたシームレスに転職を続け、働いている。わたしはこのペースが精神の健康を維持する上でよいと感じていて、あの数ヶ月を得るために警察や病院や福祉の人に助けてもらって以来、どうにも言葉にしようのない気持ちが芽生えた。

働く動機って、そういうところからくるものじゃないか。一時的にでも居場所を作ってくれた人への気持ちが恒常的な行動原理になることってあるものだ。

だからこの小説での花ちゃんの黄美子さんに対する気持ちはジーンとくる。

 

 

 *  *  *

 

 

インドで三ヶ月を過ごしながら日本人の長期旅行者と出会ったときの気持ちも、花ちゃんと似ていた。

 みんな、どうやって生きているのだろう。道ですれ違う人、喫茶店で新聞を読んでいる人、居酒屋で酒を飲んだり、ラーメンを食べたり、仲間でどこかに出かけて思い出をつくったり、どこかから来てどこかへ行く人たち、普通に笑ったり怒ったり泣いたりしている、つまり今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちは、どうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手にいれたのかということだった。

(第九章 千客万来 より)

わたしは社会でまともな仕事で稼いだお金で旅先にいながら、花ちゃんと同じことを思っていた。日本人の旅人と会うと、どうやってインドにいながら帰る場所も確保して生活できているのか不思議でしょうがなかった。

 

そして他人のそれはそれ。自分は自分で、目の前にあることに適応して生きる。自分にやさしくしてくれた社会に感謝しながら、誰かに親切にしてもらった記憶を引っ張り出しながら、ときには神秘的なことも頼りにしながら。

わたしは内心、ヨガにコミットした生活を恵まれた人のものだと思っているけれど、そう認識していても、それはそれ。だからこの小説の花ちゃんの逡巡を自分のことのように見る。

 

そしてなんといっても心が揺さぶられたのは、後半の花ちゃんのあの変貌。

自分で自分をなんとか認めて鼓舞しながら、同時に自分で自分を追い込んでいったあのリーダーシップと課題遂行能力。こういうアクセルの制御は学校では教えてくれない。いきなり社会での実践になる。そこに無理な論理が持ち込まれていても、誰も導いてはくれない。

信仰もせずに、ほかの人はどうやってあのエネルギーと道徳観のバランスをとりながら生きているのだろうと不思議に思うのはこういうときだ。

 

 

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この小説の時代は90年代で、花ちゃんが苦労をした時期はDr.コパの時代だから、『黄色い家』だ。そうか、そういう信仰ならたくさんあった。家を掃除し、西側に黄色のものを飾り、仕上げは黄色いお財布。雑誌の付録にもなっていた。

 

この小説は超絶重い話だけど、モチーフ選びが絶妙で笑いを誘う。どんな気鋭のスタイリストをつけたらそこに「アンメルツヨコヨコ」を置けるのか。そしてそこは絶対に「ラッセン」でなくてはいけないところにラッセンの絵がある。固有名詞の選択に狂いがない。

これは「小津映画の『秋刀魚の味』って、わりとまじで選択権のない岩下志麻がかわいそうでは?」と思いつつ、画面のなかの色使いが絶妙にポップだからいけてしまうのと似ていて、主人公の心に密着して読むとかなりしんどい。

 

そもそも裕福な家の話じゃないし、家庭での居場所のなさにリアリティがありすぎるし、親から金を無心されてきた人はトラウマを刺激される。夜の仕事の経験や東村山あるいは三軒茶屋に住んだことがあれば絵も浮かびやすいだろう。

わたしは渋谷と三軒茶屋の間を何度も歩いたことがあるから、あの高速道路下の光のなさが体感的にグワッとくる。記憶も感情も大シャッフル大会になった。

 

たいへんな読書時間だったけど、再読で第一章を読んだら黄美子さんが違う人に見えてきた。夏目漱石の『こころ』の再読で「先生」をひとりの人間として見るようになるのと似ていた。