「おしおきは神のしごと」という話をこのブログに8年前に書いたことがあります。
これは、思いがけずその機会がやってきても仕返しをしないという信条で、暗唱しやすくするために短い文章にしています。
このマントラはどんな場所でも起こる出来事「なんとなく自分のせいにされた」という場面で役立ちます。
数ヶ月前にもありました。
わたしが手配したロボットによる情報伝達業務を、受ける側のシステム上で自らブロックした状態で「まだ届いていないのだが指令は出しているのか」「出し方が甘いんじゃないか」と、やんわり問い詰められました。
そうこうしているうちに、他の人が原因を発見しました。
こういうことって、よくあることです。
疑いが晴れたときには正直ホッとし、ホッとするのは筋違いと理論上はわかっているのだけど、それでもやっぱりホッとしました。それが人間の心。
最後まで疑われっぱなしで謝罪がないまま事が進む間に「おしおきは神のしごと」と唱えてやり過ごしました。
こういうことは社会生活を送っていたら、活動し行動し続ける限り、一度や二度や100回ではなくその機会に遭遇します。
* * *
さて。
中間で仕事をしたロボットにはプライドがありません。これがどうにもありがたく、助かりました。
配達業務を人間に頼んでいたら、その人間のプライド修復にかける感情労働の工数が追加で発生します。
もう少ししたら、ロボットが「届け先側が自分で鍵をかけているのを認識していないようです」と報告してくれるようになるでしょう。そうすれば、こちらから「鍵を解除し忘れていませんか。ちょっと見てみてもらえませんか」と伝えることができます。
いずれにしても、人間個人の性質をジャッジしたり追求したりしなくて済むのは精神衛生上ありがたいこと。
AIはプライド修復のリソースを生まない存在として、これから大活躍するでしょう。
聖典・聖書にある教え
「おしおきは神のしごと」はわたしが30代の頃、精神がキャパ・オーバーしていた時期に見つけたものです。
イスラームの聖典『コーラン』とブラジルの格闘家ヒクソン・グレイシーの本にあった教えをヒントに、自分で覚えやすくするために「おしおきは神のしごと」という一文にしました。
先日、これに似た教えが新約聖書にもあることを知りました。
愛する人たち。自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
パラマハンサ・ヨガナンダ の『あるヨギの自叙伝』では、以下のように解説されていました。
正義の法則に対する信仰は、不正に対するわれわれの性急な憤りを緩和してくれる。「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自信が報復する」。自然が適切な報復をしてくれるのに、人間が何で愚かな工夫をこらす必要があろうか。
(第31章 ラリヒ・マハサヤの未亡人に会う より)
不正を正すことを名目に正義の暴力を振るおうとする「性急さ」への補足説明が巧みに行われていました。
この本の愛読者だったアップルの創始者スティーブ・ジョブズは、性急かつ意地悪にキレ散らかす性格で、その様子が2015年に映画化されています。
原作となった公式の伝記に、"ティーンエイジャー時代にはじめて読み、インド旅行中にまた読み、そのあと、毎年必ず読み返してきた瞑想と精神世界への道しるべ" として『あるヨギの自叙伝』が紹介されていました。
わたしが先ほど引用した31章の教えは、毎年読んで、毎年スルーされ続けたのでしょうか。
そこも Think Different なんかーい! と、ツッコミが止まりません。