うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ジョージ・ハリスン自伝 ― I・ME・MINE(第二部)

先日の第一部に続いて、第二部をご紹介します。
第二部はジョージの作った曲について、みずから解説をするという内容。ビートルズの中で、さらにジョージの曲と言われてもわからない、というヨギのかたでも、面白く読めます。このブログでお馴染みのスワミも出てきます。
わたしはビートルズジョージについてこれまでにいくつかの記事を書いているので、これを機にヨガ的な視点でビートルズに興味を持った人は、こちらからビートルズ記事をあさってみてください



ジョージの書いた「ディア・ワン(Dear One)」という歌はパラマハンサ・ヨガナンダ師に捧げられた曲だとか、この本にはヨギにとって「まー! ジョージさんたら」なエピソードがいっぱいです。というか、ジョージさん、ヨギなので(笑)。
そんな流れなので、以下は「あるロック・ヨギの自叙伝 〜その楽曲とともに〜」という感じで読むと、より興味深く読めると思います。

<164ページ 「タックスマン」(Taxman)>
「タックスマン」は、お金を稼げるようになったものの、実際はそのほとんどを税金に取られてしまうということに初めて気づいて書いた曲。当時も今もそれがあたりまえになっている。どうしてそんなことになるのだろう。何か大切なことを忘れていて、そのために罰を受けているのだろうか。

最後の一行が印象的。

<178ページ 「イッツ・オール・トゥ・マッチ」(It's All Too Match)>
「イッツ・オール・トゥ・マッチ」は、子どものように純粋な気持ちになって書いた曲だ。LSDの体験中および体験後に見えはじめ、のちに瞑想によって確かなものとなった感覚がもとになっている。こんな感じだ。

 きみの瞳を見つめていると
 そこにはぼくへの愛がある
 奥へ入れば入るほど
 より多くのものが見えてくる

そして「すばらしすぎて……」へのくだりへ続くのだ。

この本には、ホワイト・アルバム前後のビートルズLSD、瞑想のことがちらほら出てくる。そして、ここでとめてもなんなので・・・ 「すばらしすぎて……」のくだりのなかでも最も瞑想的な最後のフレーズを次に引用します。

 すばらしすぎて つかまえきれない
 このあたり一面に輝いている愛は
 学べば学ぶほど 知っていることは少なくなる
 ぼくのやることは あまりにもすごすぎる


もうひとつ

 教えておくれ ぼくはあらゆる場所にいると
 そして お茶を飲みに家へ帰らせておくれ

おつかれですね。

<190ページ 「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」(Within You Without You)>
「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」を書いたのは、瞑想に興味を持つようになったあとだった。ぼくらはすでにLSDを卒業し、「愛こそはすべて」の時代に入っていた。(中略)
 ちょうど『サージェント・ペパー』を作っているころだった。ラヴィ・シャンカールのもとでしばらくのあいだレッスンを受けていたので、ぼくはシタールがいくらかまともに弾けるようになっていた。

以前ラヴィ・シャンカールジョージ・ハリスン「Chants Of India」というアルバムについて書きましたが、そのとき
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」の「When I'm Sixty-Four」直前のあの感じが、突然ふわりと襲ってきたりする。
という「直前」の曲がこれです。


そしてもうひとつ、今年「うおおっ」と反応してしまった以下の記事もあわせて読むと、より興味深いです。
JOHN LENNONが40年前に隠したドラッグを建築業者が発見?タワーレコードに掲載のニュース記事)

レノンが67年に瞑想修行のためドラッグを止めようとして庭に大量のLSDを埋めたことが知られており、これらの瓶がそれにあたる可能性があるとされている。レノンは翌68年のインド旅行の後に、この埋めたドラッグを探そうとしたものの見つけられなかったという。

そしてその後に、以下の過去ログをあわせて読むと、局部的な一面でビートルズを語れるようになります。「ビートルズ v.s. マハリシ、仲違いの真実」という記事

「ぼくら」が卒業できていたかというと、そうでもないかもね。

<198ページ 「ジ・インナー・ライト」(The Inner Light)>
「ジ・インナー・ライト」は、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」から生まれたと言ってもいい。あるとき、デヴィッド・フロストのテレビ番組で瞑想についてとりあげた。マハリシ・マヘシ・ヨギのインタビュー映像が流され、ジョン・レノンとぼくが出演した。客席に大勢集まったなかのひとりに、ケンブリッジ大学サンスクリット語を教えているジュアン・マスカロがいた。


(中略)


 (手紙をくれたほか)あわせて彼は、『ランプス・オブ・ファイアー』という本を送ってくれた。手紙は続く。「……あたなはこの本の六六ページ、四八番の詩はいかがでしょう」。それこそが、「ジ・インナー・ライト」のもとになった詩である。老子の『道徳経』を英語に訳したものだ。

うちこがジョージに惹かれるところは、こういう自然なつながりへの親和のしかた。とってもオープンで偏見がないところがすき。

<201ページ「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(While My Guitar Gently Weeps)>
「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を書いたころ、中国の『易経』の本を持っていた。「あらゆる物事は互いに結びついている」という、東洋の思想にもとづいた本だった。「物事は単なる偶然にすぎない」という、西洋の考えとは正反対だ。

ジョージの曲」としていちばん有名なんじゃないかな。(身近なロック・ファンの統計だけど)その背景に、『易経』があったとは。ヨギになる前「この曲のメロディに色気を感じない人が果たしているだろうか」と思っていた。たまらない色気に包まれたメロディとセットの歌詞のルーツが、『易経』かぁ。素敵すぎ。

<254ページ 「アイ・ミー・マイン」(I Me Mine)>
ぼくたちの心の中には、ほんの小さな利己心、すなわち小文字の「わたし」がさまざまな形で存在している。それは、大洋の中の一滴のしずくのようなものである。スワミ・ヴィヴェーカーナンダはこう言っている。「それぞれの魂は、神のようになれる可能性を秘めている。われわれがめざすのは、その神に近い部分を表に出すことなのだ」。ぼくたちは、自分の魂が神に近づける可能性があるということを、まず認識しなければならない。
そして、自分の心のそういう部分をはっきりと示していかなければならない。それはすなわち、一滴のしずくを大文字の「わたし」(大洋)の中に吸収させることによって、小文字の「わたし」を追い払ってしまうことでもあるのだ。

『小文字の「わたし」』という表現が素敵すぎ。そして、うちこのアイドル、ヴィヴェたん登場。この曲については過去に単体で記事を書きました。
参考記事:ジョージ・ハリスンのアイ・ミー・マイン(I Me Mine)

<287ページ 「アート・オブ・ダイイング」(Art of Dying)>
 象徴的なことに、火は「種」を焼きつくす。ぼくたちはまず第一に、これ以上多くのカルマ、つまりこれ以上の作用と反作用を、作り出さないようにしなければならない。たとえば、透きとおった湖に小石を投げ入れると、湖面には無数の小さな波が起こり続ける。ぼくたちのいかなる思考も、言葉も、動きも、行為も、すべては宇宙の彼方へ向けて、同じような波を発信している。そしてその波も、結局は自分のところへ戻ってくる。何であれ、自分がやったことは、直接自分へと返ってくるのだ。
 というわけで、肝心なのは、大きな反作用を生まないような方法を見いだすことである。たとえば「アップル」と「ビートルズ」という、ぼくらがくぐり抜けてきた一連のばか騒ぎがある。あれなどは、湖に大きな岩を投げ込んだようなものだ。すべてがものすごい勢いではね返ってきて、本人たちを縛りつけてしまった。永遠に、あるいは、縄をほどこうと行動を起こさないかぎりずっと。

ジョージ・ハリスン師匠は、きっつい個性と才能がひしめく組織のなかで生き抜くメソッドをお持ち。このことについて、いつか「ジョージ・ヨギから学ぶマネジメント哲学」のような感じで書いてみようと思います。

<395ページ 「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(Living In The Material World)>
リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」は、スワミ・A・C・バクティヴェダンタからの影響と、「この身体は自分の存在とイコールではない」という認識から生まれている。


(中略)
 

 また、ジョークをいくつも織りまぜたコメディ・ソングでもある。これは気づかなかった人もいると思うので、念のため!


 あいつらに出会ったのはここ 物質世界
 ジョンとポールがいるのもここ 物質世界
 始めたころはすごく貧乏だったのに
 巡業の中でリッチーを迎えた

映画「レット・イット・ビー」でのポールとジョージのせつない場面を見たことがある人なら、このジョージのユーモアがグサグサくると思う。そんなときでもユーモアを忘れない、ちょっぴりシニカルなジョージ。


<451ページ 「イット・イズ・ヒー(ジェイ・スリ・クリシュナ)」(It is "He"(Jai Sri Krishna)>
「イット・イズ・ヒー(ジェイ・スリ・クリシュナ)」は、インド、とりわけ聖地ブリンダーバン(ヴリンダーヴァン)での体験に触発されて書いた曲だ。ブリンダーバンは、四○○○年前にクリシュナが暮らしていた町である。インドでもとりわけ神聖な土地のひとつで、町をあげてクリシュナ神をたたえている。だれもが「ハレ・クリシュナ」など、さまざまなバリエーションのマントラを口にしていて、どこへ行っても耳に入ってくる。
 それは、ぼくにとってすばらしい経験だった。あそこを訪ねることができて本当によかったと思う。あのときはどういうわけかラヴィ・シャンカールが、ぼくがスリパド・マハラジに会えるようとりはからってくれた。とても禁欲的に修行を続けていたマハラジは、少し英語を話すことができて、ぼくたちを町のあちこちへと案内してくれた。


(中略)


案内されて着いたのは、年をとったゴスワミが住む家だった。ぼくたちは中に通され、座ってお茶を飲み、暗くなってからその場を辞した。
 その家を離れたとき、マハラジも一緒だったのだが、ぼくはこの人がいったいだれなのか、まだよくわかっていなかった。ところが一緒に歩けば歩くほど、「なんということだ、信じられない」という思いが強くなった。
道行く人たちはみなマハラジに歩み寄り、ひっきりなしにその足に触れている。彼の外見は年老いた物乞いと言ってもいいくらい。みすぼらしいものだった。すっかりもつれた長い髪をしていて、ずだ袋のような古いローブをまとっていて、両足ははだしだった。それなのに、頭を丸めてサフラン色のローブに身を包んだスワミたちまでもが、次々と彼のもとへやって来てはお辞儀をし、足に触れていくのだ。


(中略)


「イット・イズ・ヒー(ジェイ・スリ・クリシュナ)」は、スリパド・マハラジに捧げた曲だ。彼はすばらしく、敬虔で、聖なる男だった。


注釈1:「スリパド」は高位の僧に対して用いる尊称。
注釈2:「ゴスワミ」は精神世界へいざなう師という意味。みずからの知性も感覚もすべてコントロールすることができるほどの存在。「スワミ」は教える人、「ゴ」は知性と感覚を意味する。

ジョージのインド旅行記。このへんから、ジョージの聖者へ向けられた楽曲はめちゃくちゃ直球になってきます。直球になると、うちこにはちょっとつまらない。ジョージの歌詞は、そこを「ビートルズジョージ・ハリスン」として自分なりに変換を試みている時期が、最も魅力的なものを生み出していたと思う。

<563ページ 「ブロー・アウェイ」(Blow Away)>
 ぼくは不愉快な思いで、少しイライラしていた。気分が悪かった。よくない感情ばかりわき起こってくる。そこで、そんな状態は「自分」ではないのだと、あらためて思い返してみることにした。こう言っている師がいたのを思い出してほしい。「だれでも本質的に、神のようになれる可能性を秘めている」。むしゃくしゃするのも、気分がよくないのも、すべてエゴが自分の心に貼りついた結果なのだ。人生でもっともやっかいなのは、心なのだ。人は心によって錯覚を起こし、時にはすっかりだまされてしまうことさえある。
 ぼくは思った。「悪い勘定などいっさい持たなくてよいのだ! すべての人を愛せばいいのだ」と。ぼくたちに課されたことのすべては、まさにそれなのだ。愛情を表に出すということ。この人生においてただひとつ、ほんとうに取り組むべきなのは、愛情の示し方なのだ。

もう、それはそれは大変だったのだろうなぁ、と思う。レノン=マッカートニーの「愛こそはすべて」よりも、うちこはジョージの「すべての人を愛せばいいのだ」の境地に共感する。


とても分厚くてヨガブロックにできそうなくらいなのだけど、この本は「自分へのごほうび」に、よい選択だったと思う。

ジョージ・ハリスン自伝―I・ME・MINE
ジョージ ハリスン
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