うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

舞姫 森鴎外 著

10年ほど前に夏目漱石を読みだした頃、何度か同時代の森鴎外の本を読んでみようかと思いつつ、いやいやいやいやあの作家ばかりはどうも・・・と遠ざけていました。高校生の頃に教科書で読んだ『舞姫』の印象が強烈で。

森鴎外はわたしにとってずっと「気持ち悪い人」でした。
そりゃそうです。だって『舞姫』を読んだ頃、わたしはエリスとほぼ同じ年。
当時の記憶は、日本人の公務員が外国で貧しい金髪美少女ダンサーとお金の援助をきっかけに親しくなり、彼女は妊娠し、それを仕事仲間に咎められて怒っている人の話。ああ気持ち悪いと、そう思っていました。


あれから30年。
わたしもおばさんになりました。
主人公がそれはそれは誠実かつデキるエリートで、でも人付き合いの面でノリが悪いために仲間とうまく馴染めない。そんななか、美少女と仲良く話しているところを仲間に見られてしまったために嫌がらせの対象にされ、嵌められたという経緯もわかりました。

だのにーーーー

なーーーぜーーー

 


  やっぱり気持ちが悪い

 


どうも思考が気持ち悪いのです。これは文体のせいだけでしょうか。
まず現在のわたしにとって、25歳の男性は超ヤング。魅力も炸裂していることでしょう。その分は存分に差し引きます。
それにしても、やっぱり、なのです。

 

だって、こんなことを書いているんだもの。

かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。

でたー! いきなり「師」を気取る人!!!   高校生ならなおさら気持ち悪かったよね、ウンウン。わかるよ、ウンウン。と、当時のヤングうちこちゃんを現在のうちこおばちゃまが全力でうなずきながら抱きしめる。(一人二役

 


しかも、無理な自己弁護もうまい文章で書くのが困りものです。

足の糸は解くに由なし。

権威のある仕事に就こうという人間が、援助交際咎められるのは当然。なのにそれを高尚な苦悩かのように見せる文才の黒魔術。島崎藤村と似た香りがします。

最後の書きっぷりは、まるで友人の顔面の真ん前で強烈な透かしっ屁をするかのようで(ものの喩えですよ)、それが共感されると思っているところに、どうにもズレを感じる。

この友人は企業の重要なポストに置いたら相当デキる人になる仕事ぶりなのに、美しい言葉で恨まれるなんて、そりゃないぜ!!! この友人の代わりにわたしがボヤきたい。


ヤングうちこはろくに勉強もせずに運動ばかりしていたので、そら成績はイマイチでした。ええ、確かにそうでした。だから自分は『舞姫』も読めておらず、勝手に印象を膨らませて記憶していたのだろうと思ってきました。

あれからざっくり、30年。今年わたしは『大塩平八郎』や『高瀬舟』を読んで森鴎外を尊敬するようになり、新たな気持ちで再読しようと思う程度には成長したつもりでした。

それでもやっぱり、なんだか気持ち悪い感覚は健在。

 


島崎藤村の『新生』もそうですが、この著者の自己弁護の偏りはいまの感覚で読むと大変苦しく、心の迷いとみなす比重が大きすぎるように感じます。(そこは体の迷いだろ! バシーン!!!  と、大きなジャバラのハリセンで迎えたい)


ヰタ・セクスアリス』であそこまで性的葛藤を整理して書いた森鴎外が、なぜそこ(肉体と精神のご都合主義)を分解しないのか。もっとちゃんと書いてくださいよ。
それが、なんですか。エリスの若さと美貌と無知ゆえのエネルギーを受け止めらなかった自分みたいな悲劇調で書くなんて、「師」と自称するような人がやること?


と、まあこのように、いまの感覚で読むと「金は出すけど手は出さない」を貫いた人でなければ書けないような文体でよくもいけしゃあしゃあと気取って書いたものだと、そう見える。

わたしにはエリート男子の見栄を想像する力というか、積極的に想像する気がないみたい。女子高生としてはそのほうが健全であったとも思うので、まあ読めてなくてもよかったのかな、なんて思ったりしました。