うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ほかの運動でケガをしてきたので、ヨガでケガをしたことがない

ヨガクラスの始まりに「今日どこか調子の悪いところ、痛んでいるところはありますか?」と尋ねると、強くストレッチをやりすぎてしまったとか、モノと衝突してケガをしたとか、そういうお話を伺うことがあります。


今日はタイトルに「ヨガでケガをしたことがない」と書きましたが、深追いすると、ヨガに似た動きで痛みを起こしたことがあります。
ジャンプバックのような動きとともに腰をそらした時に足を突き指し、それが腰に響いて痛んだことがありました。身体操法のワークショップで、一呼吸一挙動で行う太陽礼拝のジャンプバックではありません。
このバイーンと響く骨の連動の痛みをきっかけに、わたしは右足の人差し指が親指より長いことを知りました。左足と右足で指の長さの順位が違っていました。30代になってから初めて気がつきました。

 


今日は心の話をしたいので、足の指の件はここまでにして、話を本題に戻して続けます。
この時にわたしは

 

 

  こんな運動でケガをするなんて

 

 

と、まあそんなふうに思いました。
気持ち的に準備運動やヨガを下に位置付けていなければ出てこない文脈です。でもこれが、その時のわたしの正直な気持ちでした。
スポーツの試合の前に準備運動でケガをしたらめちゃくちゃ悔やむと思うのですが、まさにそういう感じ。受験や就職活動で、自分ではものすごく妥協したつもりで受けた対象からも落ちたときとか、きっとこういう感じになるんじゃないかと思うような、そういう傲慢さのブーメラン。

 


以来、自然にケガに気をつけるようになりました。

いまでも太陽礼拝のジャンプバックは、手のひらの手首に近いところまでベッタリついた状態でアルダ・ウッターナ・アーサナができるところまで身体がほぐれてからでないとやりません。

 


さて。

ここからは、その心の背景の話です。
わたしは20代のはじめまで「パワーを出す」とか「猛スピード」が必要な運動をしてきました。
ソフトボール軟式野球のほか、スキーでコブ斜面を滑ったり、有り余るエネルギーを ”危険も伴う運動” に使ってきました。
ソフトボールでは至近距離からものすごいスピードのライナーやショート・バウンド(打球)が飛んでくるため、それに負けないメンタルが必要でした。スキーは雪のコンディションや天候・視界、そして自分の能力も雑に見積もり、いろいろなことを甘く見て何度か強烈に頭と身体を打撲しています。
当時は「攻略したい」「制したい」という気持ちや「ワンチャンいけるんちゃうか」(←使い方あってるかしら)という欲があり、とにかくいろいろ雑でした。


そんなヤングな時期があったので、30代になってから、ものすごくゆっくりなのに最後にはしっかり燃焼できているヨガの事後感覚に出会い、かなり感動しました。その後何年かかけて、深く入ることや集中力をゆっくり使うことが「スッキリ」の要素として大きいことを知りました。
わたしは両方の記憶を持っているので、慢心でコケたり判断を誤ったり、欲求が満たされない怒りを処理できずに錯乱したり、そういういろんな意識、エイっと行きたくなる瞬間の衝動がよくわかります。そしてそれは、あまり年齢と関係がないと思っています。
楽しんだり同一化しているからそうなっています。何事も斜に構えて楽しむところまで行かないよりも、豊かな状態だと思います。

 

わたしは、”そういう面” をいったん満たさないとわからないことがあると思っています。
ヨーガヴァシスタを読んでいると、そこに登場する王や聖者の物語の構成にその教えが込められているように見えます。聖典の中のエピソードが、何度もいろんなバリエーションで、それを投げかけてきます。
「欲を満たしたくてあがいた」という自己認識を経ないとたどり着けないことを教えられているように感じます。

 

欲を満たしたくてあがくのって、恥ずかしいですよね。
だからきっとヨガのような運動に惹かれているのだと思います。わたしの場合はそんなふうに考えています。


いまのわたしが思うのは、自分の欲を断罪してると陰気になるし、他人の欲を断罪してると狂気じみてくるし、このどちらにも偏らない状態でいたいということ。
こんな切実なる日々の願いに、ヨガはいいのよぉ〜。ほんと。と思います。
呼吸をしながら動けていれば、そのときは大丈夫なんです。