うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

急に具合が悪くなる 宮野真生子・磯野真穂(著)

女性二人の往復書簡(メールでの文通)の本でした。
理解できる相手だから話せることがあるのと同じように、理解できる相手だからこそ書けることって、ある。
大切なのは、思っていることを言葉にできるまでの文脈と、そこへ至るまで正直さを絞り出す胆力の積み重ね。

 

この往復書簡の書き手の二人(宮野さんと磯野さん)は、知り合って9ヶ月で、リアルで会ったのは5回なのだそう。
宮野さんが進行中のガンを患っているため、生きるだ死ぬだの話にまで踏み込んでいます。
死を意識している宮野さんは哲学者かつ九鬼周造の研究者なので、魂の分有と輪廻を語った九鬼周造の教えを何度か引き合いに出されていました。

 


病人になっても遊びのある柔軟な時間を生きたいと願う宮野さんと、自らの保身感情を自己開示しながら病人との話しにくさも正直に開示していく磯野さん。
その話しにくさを、宮野さん側がしっかり受け止めて、こんなふうに書いています。

 圧倒的非対称性の中で、私がケアされるだけの弱者になってしまえば、みんな優しくしてくれるでしょう。ケアされるだけの弱者が、辛い辛いと自分に立てこもって、周りの人の優しさに甘えたとしても、周りのケアをする人間は健康な強者なのだから、多少は許してくれるでしょう? そこには「ケアするもの - されるもの」の固定的なフォーマットがあり、そのマニュアル通りにやれば、とりあえず時間をやり過ごすことはできる。でも、そんな関係、何も幸せじゃないですよね。まさに「ケアするもの - されるもの」という、点と点の連結器に互いが固定され、動くこともできないまま、終わりに向かって流れていく物理的な時間を過ごすだけの一方向の関係。死という動かせない未来に目を取られるあまり、時間のなかにあるはずの動き、始まりを忘れた、まさにすでに死んでしまった(まだ死んでなどいないのに!)世界。そこに自己と他者が関係を紡ぐなかで生まれる時間の「厚み」はありません。
(10便 ほんとうに、急に具合が悪くなる 宮野さん→磯野さん)

 

この本には、まだまだ引き合いの多い働き盛りの時に急に具合が悪くなることがわかっている生活へ向かう不安と怒り、その処しずらさが書かれていました。

今日の感想は長いので目次をつけます。

 

 

ただの人として治療に向かえない、専門職者としてのアイデンティティ

磯野さんは人類学者で、宮野さんは哲学者。それぞれが専門分野を持っています。
宮野さんは治療の過程のなかで、大学病院の主治医との面談に同席した母親が、「先生の家族が同じ状態だったら、どうしますか?」と、主治医の話を遮って質問したときの話を書いていました。
宮野さんは母親に対して、それはルール違反だと強く感じ、孤独になっていったと言います。
自分が医師と同じく専門職を持つ人間であるというマインドセットから、母親を避けるようになったと。

このとき宮野さんが母親を「民間セクターの人」として見ていた視点が印象に残りました。
宮野さんはそのあと友人からシンプルに「主治医とちゃんと話しなよ」と言われて、やっと、自分は社会的な「私」ではなくただの「私」としての問いかけを医師にしてこなかったことに気づきます。

大人の年齢になっている女性が母親と一緒にいて、「苦しんでいる娘」のポジションが取れない。この感じが、すごく伝わってくる。
大人同士のサポートを成立させることの現代的な難しさが、いろんな角度から考察されていました。

 

 

人間関係の作り方にはマニュアルがない

「人間関係の作り方にはマニュアルがない」というのは磯野さんの言葉で、問いもシンプルです。

 アドバイスには普段通りとありますが、日常会話は、詮索、不正確な会話、価値観の提示、励ましに満ちています。それではいったい、どこまで踏み込んだら余計な詮索、価値観の押し付け、あるいは安易な励ましになるのでしょう。それは誰にもわかりません。
(9便 世界を抜けてラインを描け! 磯野さん→宮野さん)

これを言わせてもらえないと、人は疎遠になるしかないのよね。

磯野さんは “宮野さんよりもずっと健康でありながら、自ら点になるだけでなく、その苦しさから他の人も自分と同じところにとどまらせ、その人すら点に変えようとしている人”  についても一瞬言及されていました。

 

 

運命論の話

2便目のメールのやり取りに、「運命論」の話がありました。
それはイベントをキャンセルなどして、直近の活動を諦めたかのように見えた宮野さんに対するメールの中に出てきました。こんなふうに。

 

 私が医療現場をフィールドワークしていて思うのは、現代医療の現場は、確率論を装った<弱い>運命論が多いということです。
(2便 何がいまを照らすのか 磯野さん→宮野さん)

この<弱い>が文章として、どこに “かかる” か。
文章の係り受けのわかりにくさが奥行きを作っています。
この<弱い>はふわっとした運命論という意味なのか、患者を弱い状態と決めつける運命という意味なのか。


迷いながら読んでいたら、宮野さんはこんな返信をされていました。

いくつもの病院をまわり、結局私の口をついて出た言葉は「選ぶの大変、決めるの疲れる」でした。
偽装された粗雑な<強い>運命論の誘惑が強くなるのは、こういうときです。

運命論が、<強く>響いてしまう瞬間について書かれていました。
それが偽装された粗雑なものだとわかっていても、それはその立場になったら受け手にとっては強く存在しうる。
自己の内面を言語化する宮野さんの文章に引き込まれます。

 

 

変化についての話

最も印象的だったのは、変化についての宮野さんの言葉です。
こんなことが書かれていました。

変化って、そんな劇的なものでなく、もっとぬるっとしていて気づいたら変わっているようなものかもしれません。自分という存在もそんな確かなものじゃなくて、相手との関係のなかでその時々に変わり、そのつど気づかれるような、もっと曖昧なものじゃないのかな。
(6便 転換とか、飛躍とか 宮野さん→磯野さん)

 

ここが印象に残った理由は、ちょうど同時進行で読んでいたヨガの本にこんなことが書かれていたからでした。

精神の成長について:
 瞑想によって運ばれていく変化は根本的で全体的なものだ。それは自分自身でも気づかないくらい微細なものだ。あなたの中で起こった変化が自分で気づける程度のものは、望ましいものでも健康的なものでもない。
(The Yoga Sutra of Patanjali /Swami Venkatesanand 著)

 

自分で気づけるほどの精神の変化はむしろ不健康。身体的にはさておき、精神的には不健康。
これは本当にそうだな、と感じます。思考の悪癖がぶり返すリバウンドのようなことが、やっぱり起こると思うから。
宮野さんとスワミ・ヴェンカテシャーナンダさんの本で、別の文脈だけど同じことが書かれていました。

 

 

医療ドラマでも描かれていた問題

この本を読んだ後に昭和の医療映画『白い巨塔』をたまたま観て、医師の保身を批判していられたのはまだ牧歌的だったなと感じます。
この本には、こんなことが書かれていました。

 私たちが生きるリスク管理社会とは、時間が未来へと消えてゆく恐怖に駆られ、その流れになんとか逆らおうとした結果生まれた、時間全体をコントロールできるような妄想に取り憑かれた薄っぺらい時間感覚に支えられたものだと思います。
(9便 世界を抜けてラインを描け! 宮野さん→磯野さん)

受験も就職も結婚も、未来の恐怖で行うなんて嫌なものだけど、つい向き合ってしまう。
それを「薄っぺらい時間感覚に支えられたもの」と表現されると、めちゃくちゃ腑に落ちるんですよね。


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わたしは「終活」という言葉がどうも嫌いで、それがなぜかと言われたら、ここで交わされるような話をしないまま、その話をしようとするからなんですよね。