ちょっと教典の歴史をおさらいすべく、再読しました。(げんそうの「そう」は、これを半角にしてくっつけて一文字にしたものです⇒「小宗」。りっしんべんに、宗)
初回に読んだときは、「うわ三蔵法師、めちゃくちゃマッチョじゃないか」と、勝手に日本で定着している繊細な美男子イメージ(女優!・笑)を塗り替えるインパクトのほうが強かったのですが、今回は「学んだ教典」に重きを置いて読みました。
この時代の中国とインドで学んだ坊さんたちの頭のよさったら、とんでもないですね。まえに「始皇帝と大兵馬俑」の展示を観に行ったときに、「紀元前からこんなに文字で伝達してたのか。すごすぎ」と驚愕して帰ってきたところだったので、さらに沁みました。
<281ページ 解題・玄奘三蔵の生涯と業績 1 玄奘三蔵の生い立ち より>
すでに各地において、毘雲(びどん)、摂論、成実、倶舎などさまざまな仏教哲学を学んでいた彼は、二大徳に "仏門千里の駒" を嘆賞されたが、悩みはますます深くなるばかりであった。
それというのは、インドで三世紀のころ、龍樹らによって成立した「空観」を中心にした大乗仏教の組織教学は、五世紀の初め、鳩摩羅什によって中国に伝えられ、南北朝時代の仏教は龍樹系仏教が盛んだった。ところがインドでは五世紀に無著(むじゃく)・世親によって「心識」を中心に精密な「唯識」の教義が宣揚され、この新大乗は六世紀に中国に伝わってきた。南朝の梁に来朝した真諦は無著の『摂大乗論』、世親の『摂大乗論釈』などをつぎつぎに訳したが、龍樹系教学に慣れた中国仏教界には、ただちにはむかえられなかった。
しかし、七世紀になって、玄奘の時代には無著・世親の仏教学の研究がようやく盛んになったが、同時に種々の異説もおこってきた。当時の中国では同一の経論でも人によってその解釈が異なり、おのおのの説を聖典に照らしあわせてみると、どうも適従するところがない。そのため法師はどうしても本場のインドへおもむいて疑問をただし、合わせて仏教哲学の最高峰『十七地論』(瑜伽師地論)を得て、もろもろの疑問を解決したいと決心した。
真諦はサーンキヤ・カーリカーも漢訳しているので、仏教以外のインド哲学も六世紀の時点で入っているんですよね。その後、空海さんが中国へ渡っています。
<291ページ 解題・玄奘三蔵の生涯と業績 3 インドでの研鑽と旅行 より>
かくて満三年の旅路をへて、マガダ国に到着した法師は、まもなくインド第一の大乗教学の中心ナーランダー寺において、「正法蔵」と尊称されている大徳戒賢老師につき、五年にわたる研究生活に没頭することになる。
(中略)
『瑜伽論』を三回、その他の大乗の諸論もくり返し聴講した。そのため法師はサンスクリットや因明(論理学)にも通暁して、自由に種々のサンスクリット文が作られるようになった。
以下、本編でのその部分を紹介します。
<167ページ 巻の第三 アヨードヤー国からイーリナ国まで より>
法師はさらにバラモンの書も学んだ。インドの梵王(ブラーフマン)の書は記論といわれる。その起源と作者は知られていない。これらの書はおのおのの却(カルパ)のはじめに、ブラーフマンが天人に伝授したもので、ブラーフマンの説くところなので梵書という。この言はきわめて広く百万頌(じゅ)もあり、旧訳に『毘伽羅論』(びからろん)というものがこれである。しかしその音は正しくはない。正しくは『ヴァーカラナ』(毘耶羯刺★、文法書、声明記論の意)というべきである。その意味は『声明記論』である。広くもろもろの語法を細かく明らかにしているので『声明記論』というのである。
むかし天地開闢のとき、ブラーフマンまず説いて百万頌を作った。のち住劫(じゅうこう)のはじめになって、帝釈天がこれを略して十万頌にした。その後、北インドのガンダーラ国シャーラートゥラ(いまのアトツク付近)の波膩尼(パーニニ)がまた略して八千頌とした。
「語法」なんですよね。パーニニの当て字がおもしろい。
★のところは「言南」←これを両方半角にしてくっつけた字です。ごんべんに、南。
以下も、ちょっとおもしろかったので引用します。単語の変格のところは読みやすいように箇条書きに変えて引用します。
ますらお=プルシャってのが、日本人の感覚だとちょっとおもしろい。
<169ページ 巻の第三 アヨードヤー国からイーリナ国まで より>
いま男性の"丈夫(ますらお)"という語によって八変化を作れば ── 丈夫はインド語でプルシャ(purusa)という ── つぎのとおりである。まず主格の三変化は、
一人称:プルシャース(purusas)
二人称:プルシャーウ(purusau)
三人称:プルシャース(purusas)
業格の三は
一:プルシャム(purusam)
二:プルシャーウ(purusau)
三:プルシャーン(purusan)
具格の三は
一:プルシェーナ(purusena)
二:プルシャーブフヤーム(ふたつ目のフは小さい・purusabhyam)
三:プルシャーイス(purusais)
為格の三は
一:プルシャーヤ(purusaya)
二:プルシャーブフヤーム(ふたつ目のフは小さい・purusabhyam)
三:プルシェーブフヤス(ふたつ目のフは小さい・purusebhyas)
従格の三は
一:プルシャート(purusat)
二:プルシャーブフヤーム(ふたつ目のフは小さい・purusabhyam)
三:プルシェーブフヤス(ふたつ目のフは小さい・purusebhyas)
属格の三は
一:プルシャスヤ(purusasya)
二:プルシャヨース(purusayos)
三:プルシャーナーム(purusanam)
於格の三は
一:プルシェー(puruse)
二:プルシャヨース(purusayos)
三:プルシェース(purusesu)
呼格の三は
一:ヘー・プルシャ(he purusa)
二:ヘー・プルシャーウ(he purusau)
三:ヘー・プルシャース(he purusas)
である。
サンスクリットの音韻変化は、いま略して一例をあげれば以上のとおりで、他の例は推して知るべきであり、ここにすべてを具述することはむずかしい。法師はみなその言語に精通し、インド人と聖典を自由に論じあえるようになった。このようにして諸部を研鑽し、ならびに梵書(ブラーフマンの教典)を学んで、およそ五年の歳月をへたのであった。
紀行のなかに、こんなに細かな記述を残しています。「ますらお」って、どうしても相撲取りのイメージなんだけど「プルシャ」っていわれるとなんだかヘンな感じがします。
ほかにも、以下のような場面はドラマにもよくあったけど…
<127ページ 巻の第三 アヨードヤー国からイーリナ国まで より>
この賊たちは、ドゥルガー神(突枷、訳注、シヴァ神の妃)に仕える連中で、毎年秋にハンサムな男を求め、その男を殺してドゥルガーに血肉を供え、幸福を祈るならわしであった。彼らは法師が姿美しく礼儀正しく、身体つきもよいのをみて
「今年はドゥルガー神を祭るときが過ぎようとしているのに、適当な人が得られなかった。しかしこの坊さんはなかなかハンサムではないか。こいつを殺して祭りをしよう。これこそ良いことではないか」と互いに喜びあった。
賊さんたちが一生懸命仕えているのは、ドゥルガー神なんですよね。こういう種類の「ハンサム」は、サンスクリット語でなんと言ったのだろう…。
ほんとダメですよね、われわれ世代。玄奘三蔵に関する知識が、ゆがみまくってる。ジェームス三木やゴダイゴのせいで、おもしろくおしゃれにインプットされすぎです。サラスヴァティー役が研ナオコさんですよ! まあたしかに歌姫だけど…。
(おまけ:Wikipediaのこのページを見ると、めちゃくちゃおもしろいです。ちなみに研ナオコさんの回は神回です←10回は見てる)
わたくし、西遊記についてはひとつのカテゴリを作るほど、昔から思い出したようにたまに書いています。
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