うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

教団X  中村文則 著

最後まで読んだあとに「この態度で書く人、いるんだ…」という静かな感動がありました。この感じはなんだろう。女性の尊厳を認める論調にしれっとすり寄ってくる男性に辟易する気持ちが相殺されるような、そんな感覚。どうもこれは信用できるぞという気持ち。
わたしは他人を生かす行為をして感謝の意を示されたときに心の中で少し疑問を抱く人を信用します。カミュの「ペスト」を読んだ時にも少し似たことを思いました。善とされる行為に疑問を持つ態度も、悪に引き寄せられずにいられない心理状態も、どちらも排除しない。


「善いことをして感謝されて気持ちよくなって、何がわるい!」という感情は、とても危うい武装。だからこそ、それを目にした時には相手の気持ちに水を差すことを慎重に避けなければいけない。バランス感覚と高度なコミュニケーション能力を必要とされる行為に愛だ平和だ笑顔だと言いながら踏み出す人への気づかいの必要性。この危うさの源泉をひとりで掘り下げるのはとてもしんどい。
でもそのしんどさを、この物語に登場する何人もの人の背景が受け止めてくれた。

 

危うい武装のエネルギーは強姦を肯定することにも応用できるものか。わたしはこんなことをこれまでに何度か考えたことがある。ヨーガでも仏教でも、儀式なら強姦ということにならなかったかのような「教義」の記録があるから。この小説はそういう歴史の陰と陽を、セックス教団×ワンネス的グループという構図で見せていて、濃いところに思いっきり切り込んでいきます。
性描写の生臭さは思いっきり昭和の世界で、この気持ち悪さはこれまでに読んだ本では「あなたにだけ」以来で。誰にも薦めることができなくなるレベル。
それでもわたしは、以前あることに合点した経験があったので、心の中で「きもちわるーい」と文句を言いながらも読みました。恥ずかしい行為をすることについて、以前オウム真理教の内部を描いた「逆さに吊るされた男」を読んだ時になるほどと思うことがあったのです。恥ずかしいという感情から解放される、それすらも乗り越えたと見なすというステージ設定が、カルトらしい要素のひとつなのだろうと思ったのです。この小説には求めたいという感情をこじらせた人が次々登場します。

 

物語全体は複雑ですが、信者のモノローグで示される背景にはときどき共通点がみられます。

不可解な何かに巻き込まれることを欲したのだ。なぜ欲したか? 世界が嫌いだったからだ。

(第二部 20より)

この人には、毎日両親が怒鳴り合う家庭で子供時代を生きてきた過去がある。


信者が一般女性を強姦しようとするときには、こんな論理を組み立てる。

 この女を感じさせてあげたい。恥ずかしい格好をさせて、泣かせて、我を忘れるほど感じさせてあげたい。僕はそれと一体化していきたい。教団の建物の中にずっといたかったのに、僕は忠誠心を示すためにここに来た。

(第二部 21より)

この人は子供の頃に、群がる男達を微笑みながら2万円で満足させていた母親の様子を見ています。教団の中に居る間は母親を美化する論理を遂行できていて、それをなりゆきで外に持ち出してしまう。そういう場面での思考。
この論理は何年か前に暴行罪の傍聴へ行ったときにも聞いたことがあります。女性も本当はそれを求めているのに表に出せないだけ。だからねじふせてあげたという論理。

 

こういう感情を見せられるのは、不快といえば不快です。いっぽうで、少しでもなにかを崇拝することで自分を保つということをせずに暮らせている人って、いるんだろうか…なんてことも考えます。Youtubeにせよオンラインサロンにせよ、小さな教祖だらけに見えるから。

子供なら親を崇拝したり養ってくれる大人に媚びることが、自己(子供の場合は身体)を保つ基本行為。崇拝という行為の大人子供の境界を、この小説はアフリカで暮らした経験のある信者とセックス教団の教祖、それぞれの過去を通じて語ります。崇拝の必然と崇拝させる側の全能感が噛み合ってしまうケースを掘っていく。ものすごく嫌な気持ちになるのだけど、この嫌な気持ちこそが崇拝の必然性と重なる。
子が親の役に立ちたい、親が子を守りたいと思う気持ちと以下の信者の感情に、そんなに大きな違いがあると思えないんですよね…。

命にかえても、教祖様をお守りしたい。そう思える自分に誇りを感じる。自分は捨て石になりたい。大いなるもののために、大いなるもののために。

(第二部 11より)

小説の中では、「そう思える自分に誇りを感じる。自分は捨て石になりたい」という熱意のありようが、第二次世界大戦への解釈と重なって語られます。それがさらに性エネルギーと織り交ぜて構成されている。
わたしが冒頭で「この態度で書ける人、いるんだ…」という静かな感動といったのはこの点です。

 

小説後半である登場人物が、テレビ番組の出演者との会話でこんな問いを発します。

一九四二年、軍に当時サックと呼ばれたコンドームを陣中用品として約三千二百万個も送らなければならなかった戦争がアジアの解放? 占領してはそこでちまちま慰安所をつくっていった戦争が?

(第二部 19より)

ここまで読んだあたりで、ああなるほどこういうふうに繋がっていくのかと、妙に積極的な(極端に隷属的、というのかな…)女性が描かれる序盤の性描写の意味が見えてきました。


わたしはこの小説が、経験と事実をどう記憶に刻みどう捉えどう考えるかの個別性について、その主体性のありようについて掘り下げようとしているところが好きです。
セックス教団でない団体にワンネスのようなことを説く教祖のような人がいる。みんなが説法を聞きに来るおもしろお爺さん。
その人は戦争体験をこのように振り返っています。

第二次世界大戦の時、日本は気持ちよさを求めた。個人より全体、国家を崇めよ。その熱狂の中に身を置くことには快楽があった。人々は自分の卑小さを忘れることができ、大きな「大義」を得ることで、自分の人生を自分で考えなければならない「自由」という「苦労」から解放された。

(第二部 23 教祖の奇妙な話 <ラスト> より)

私達は加害者であり被害者でもある特殊な経験をした。そんな私達の特殊性を、他の国と同化することで失っていいのだろうか? その私達のオリジナリティを、失っていいのだろうか?

(第二部 23 教祖の奇妙な話 <ラスト> より)

このお爺さんはもともと女中の生んだ隠し子として生まれ、なのにあんまり隠されずに父親と同じ屋敷で暮らし、のちに太平洋戦争に出兵した経験を持っています。子供のときから疑心暗鬼のマインドで生きてきたために、出兵に至った際も「本家の子の代わりに出兵させられるのか」と疑ったと振り返っています。


過去の自分をこんなふうに語ります。

当時の私の世界認識は、個人的な好悪に支えられていたものに過ぎなかったのです。

(第一部 19 教祖の奇妙な話Ⅳ より)

その後、戦時中に命拾いをする神秘体験のようなものを経験して、なりゆきで教祖のようになっていく。この人物がたどりついた境地がすばらしい。
そこに神の意思があるにしてもないにしても、そもそも神があるにせよないにせよ、人生は「物語」なのだからという。


第二部で、中村元先生のファンならニヤけずには読めないセリフが出てきます。

悟り、つまり『ニルヴァーナ』とは、恐らくその時の『安らぎ』のことなんだよ

(第二部 2より)

ニルヴァーナをあっさり「涅槃」と言ったりしないこの人物の元ネタを、著者がちょっと種明かしみたいに差し込んでいる。やられたわー。

 

 

全体の物語としては、二つの組織の中間で揺れる人物が最も読み手に近い位置にいます。中間で揺れる人物は何度か他人に対して「好きになってしまった」という感情の経験をしていて、その「なってしまった」という状況への向き合い方、退け方、逃げ方の人間くささの描き方がすごくいい。終盤でそれまでクールな存在として描かれていた女性が人間性を開示する場面が、わたしはとても好きです。

そして、そういう人間くささを完全に排除できると信じて意地を張って生きている人物もいる。わたしはその人物の雑な一面を表すネット上のハンドルネーム「子育て侍」がじわじわ面白くて、この人間らしさの鎖から逃げ切れていない感じが、まるで自分みたい…。と思いながら読みました。

 

なんで人はときどき過剰に善人ぶりたくなるのだろう。この問いはシンプルなようでぜんぜんシンプルじゃない。

それにしても、なにごとも「あとで意味があった時のために」と考えるのは粋なアイデアだし、たぶん輪廻思想の根本にもこの要素があるんじゃないかと思う。

長い小説だったけど、読みがらこれまでに何度か考えたことがふわっ、ふわっと浮き上がってくる。不況になると新興宗教は生まれずに洗脳も占い師スタイルの小規模化をたどるという話とか、小ネタもおもしろかったです。

 

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)

  • 作者:中村 文則
  • 発売日: 2017/06/22
  • メディア: 文庫