うちこのヨガ日記

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「私の個人主義」を再読しながら、昨年の東京大学入学式・祝辞の内容を思い出した

ここ半年で生活ががらりと変わり、いまの自分の物事の見かたは大丈夫だろうか、と思って「私の個人主義」を久しぶり読みました。
夏目漱石が大正三年に学習院の生徒に向けて行ったスピーチです。このテキストを久しぶりに読みながら、ふと昨年話題になった上野千鶴子さんの東京大学入学式・祝辞の内容を思い出しました。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。

という部分でぐっと惹きつけられた、あのスピーチ。
今でもネットで読むことができます。

 

ああ世の中はここまで変わったんだなと思いつつ、大正時代の夏目漱石のスピーチも、根っこの指摘は同じであるように思います。
そのスピーチも、青空文庫のテキストで読むことができます。



以前読んだときは、「なまこ」のインパクトと夏目漱石が自分の仕事を見つけたと感じたときの話が印象に残っていましたが、今回は後半に差し掛かるところで先の東大の祝辞を連想しました。

今まで申し上げた事はこの講演の第一篇に相当するものですが、私はこれからその第二篇に移ろうかと考えます。学習院という学校は社会的地位の好い人が這入る学校のように世間から見傚されております。そうしてそれがおそらく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。

そういえば、このことを指摘していたなと。

 


しかも、繰り返すようにまとめながら、以下のように話している。 

今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴なう責任を重んじなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
 これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。

夏目漱石は小説の中でも支配という言葉をとても現代的に使っています。そのままセルフ・コントロールというカナに置き換えられるような書き方をしている。
「背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来る」というこの言い回しの精確さが、先の上野千鶴子さんの祝辞を読んだ後に読むと、さらにまた沁みました。

 

 

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