- 作者: 夏目漱石
- 発売日: 2012/09/27
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「塵労」の十一で問題の人がテレパシーの話をするあたりからは、まるでいまにもカルト教団に入信しそうな人のメンタルをデッサンしたかのような行が連なる。どきどきする。
本人も、実際そう言い出す。
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
初回は「この人、どーすんだろ…」という気持ちで読んだけれど、いまは少し違う。ほかの小説も読むと、ここではどういう心境を掘り下げて書こうとしたのか、という少しマニアックな目線が入ってくる。死ぬバージョンと宗教に入ろうかと行動するバージョンは別の小説で描かれているから。
死ぬバージョンの人は実家が寺という設定。そもそも宗教に入るという道をそこでふさいでいる。この「行人」のあとに書かれた「こころ」という小説にそういう人が出てくる。
宗教に入ろうかと行動するバージョンの人は、奥さんと仲が良い。ラブラブだ。この「行人」のふたつ前に書かれた「門」という小説にそういう人が出てくる。
そう。この人は「気が違う」バージョン。この小説がどうにもエグすぎるのは、自我のエキスを煎じ詰めたようなセリフがてんこ盛りだから。他人をコントロールできないという状況がありえることを理解できない人の言い分、コントロールさせない相手を残酷だという人の言い分をこってり聞く機会というのは普通に暮らしていたらなかなかないし、現代では医者の仕事になっている。きっと、ものすごく予約の取りにくい医者の仕事だろう。
自分からは歩み寄らない前提で日常を見ながら、神になれないことで苦しみ悶えている人は、とても苦しそう。
その苦しさを、夏目漱石は
命の流れが刹那刹那にぽつぽつと中断される
と表現する。
食事中一分ごとに電話口へ呼び出されるような状態
と喩える。
二度読んで、この表現にうなってしまった。
太陽礼拝のようにシーケンシャルな動きをしているときに感じるあの「安らぎ」をなぜ自分は求め続けるのか。その解が見えた。
神と一体化していない瞬間にあらわれるぎろりとした自我に中断されることや、長男を神かのように扱う家庭で寄りかかられてキャパオーバーしていく人の苦しみをこんなにもぎっちり描いた小説は、なかなかない。再読ながら、すごいものを読んでしまった気がした。