うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

哲学の先生と人生の話をしよう 國分功一郎 著

「自分に嘘をつくというのが生きることにおいて一番良くない」「人はひとりで考えていると碌なことになりません」というフレーズが印象に残る本。著者が「観念でしかないものを口に出して物質化しましょう」と書いているのを読んだとき、とてもよい意味で頭の力が抜けました。言葉にするというのは物質化しているということだと。涙が悲しみの物質化でマントラが祈りの物質化であるように。


わたしはQ&Aコンテンツが好きで、学生時代に雑誌で読んだ中島らもさんの人生相談にはじまり、いまはラジオで聴くのが好きです。ラジオは肉声ということもあって、見ず知らずの他人の話を聞いている生身(なまみ)の自分に意識を向けてしまった瞬間、たまに恥ずかしくなります。この本も同じくらい恥ずかしくなりました。
久しぶりに「テキスト世界の相談」を読んでみたら、すごかった…。雑誌やタレント本と違い、この本はメルマガがベース。著者は相談者の文章を読み込みながら「なぜ肝心なこのことについては書いていないのか」まで切り込んでいきます。まるで探偵。

 

自分がかわいそうに見えるように都合のいいことしか話さない人のエゴを暴いてバサッとやっていく様子は、以前瀬戸内寂聴さんが出版記念公演の最後のQ&Aでやっているのを見て震えたことがあるのですが(怖くて震えたという意味)、その感じととても似ていました。著者はお坊さんではないのでそこから説法の方向へは行かず、推測問答がひたすら続きます。
相談者の文章・行間・文体・語調・ペンネームまで全材料を総洗いしたうえで回答し、さらに「知に救われろ」とばかりに本の言葉を引きつつその本も紹介していく。読みたい本がどんどん増えていく。
それにしても、ここまで書くってすごいわ。

「プライドが高い」人で一番ブザマなのは、時たま、他人を見下す自分の気持ちに対して罪悪感を抱くことなんです。自信の欠如ゆえに他人を見下し、それによって自分のプライドを維持しているというこの構造そのものが問題なのに、そこには思い至らない(というか、思い至りたくない。思い至ったら自信のなさに直面することになるから)。だけど、やっぱり、ずっと他人を見下し続けるという状態に精神は耐えられないから、その代償として罪悪感を得る。
 ところが、そういう人間はこの罪悪感がいったいどうして発生したのかを考えることができない。つまり先の構造に思い至らない。それどころか、ちょびっとだけ現れた反省的意識によって自らの罪悪感を察知できたことに、なんだか知らないけど満足感を得たりするんです。要するに「そんな風に罪悪感を感じることのできる自分は繊細だ」と勘違いするわけです。
(「20 交際相手が自分の言葉で話してくれません」への回答より)

わたしはヨガの教えに日本語で触れていると「そんな風に罪悪感を感じることのできる自分は繊細だ」と勘違いさせる方向に導いていないかこのノリ…いつの間にか別の宗教のテイストに塗り替えられてない? と思うことがあります。読みながらドキドキしました。
ちょびっとだけ現れた反省的意識によって~、からの強さはまるでチョギャム・トゥルンパのよう。すごい迫力。


わたしがヘルマン・ヘッセの小説を読書会の課題図書にしているのはこの種のプライドの描きかたが巧みだからなのだけど、この人生相談にはその感じをずばっと書いている箇所が何度かあり驚きました。
この本は著者名に見覚えがあって読み始めたのですが、ほぼイッキ読み。読み出したら止まらなくなってしまいました。以前「時代の動かし方 日本を読みなおす28の論点」を読んだときに、その内容のおもしろさからお名前の文字列を記憶していた哲学の先生。近頃めきめき記憶が滑り落ちやすくなっているのだけど、ええ本見つけられてよかった。

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう