うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

女たちのニューヨーク エリザベス・ギルバート著/那波かおり(翻訳)

どんな多様性の話題も、まだどこかでちゃっかりわきまえているフェミニズムも蹴散らす最強で最高の物語。ものすごくおもしろいので本編の筋に触れないまま、今日は読書中の心の体感温度を振り返って感想を書きます。

 

後半にジョー・ディマジオの名前が出てきたところで、そうかこの物語はマリリン・モンローの時代と感じた瞬間、同時に、いまこうして生きている自分が来世にいる気がしました。そのくらい、この時代の世界にのめり込みました。
この分厚い本の後半をわたしがたった3日で読めたなんて、まだ信じられないくらいです。最後の2日は、寝なきゃ寝なきゃと思いながら時間が過ぎていく、そんな熱狂的な読書時間。こういうのは、いつぶりだろう。
この引っ張りかたのうまさは、回想に挟まれる絶妙なユーモアセンスの賜物。ときどきクスッと吐く息が入ることで、頭が負担を感じないまま、その世界に入っていける。


このものすごい恥と後悔の感情は、まったく同じ経験はなくても、周囲の人に合わせているふりをしながら決断から逃げた瞬間の積み重ねで沼にハマる失敗は誰もが大なり小なりやっているはずで、なにかを小さくフラッシュバックさせる。もうこれしばらく立ち直れないだろ・・・、と思うあたりから先が気になってしょうがなくなる。
この若い主人公のあやまちをなんとか帳消しにしてあげたくても、わたしは読者だからなにもできない。もどかしい。そして、そこからの展開はもう見事としか言いようがない。


この物語を読みながらわたしの中でシンクロしたのは、少し前に読んだ、この淡谷先生の自伝でした。

 

ショー・ビジネスの世界の話なので、表現をしながら時代に抱かれつつ、屈辱を感じながらもなんとか生きている。そんな気高い人々の心の描写に、印象の重なる部分が多くありました。
当時のアメリカは「ヒトラーヒロヒトへの怒り」に溢れていて(実際そんな文字列が出てくる)、アメリカに住む人たちの視点で語られる戦時中〜戦後の数年間も強く印象に刻まれました。


それにしても、まったくいやはや、どうにも。わたしの心は雑巾のようにぎゅーっと絞られ、灰色の汁がいっぱい出ました。主人公と一緒に年齢を重ねた気分。

二十歳の自分はつねに夢中になれるだれかを必要としていて、相手がだれであるかは、さほど重要ではなかったということだ。(そして、わたしよりカリスマ性のある人はニューヨークにあふれ返っていた。)わたしは人間として未熟で、とても不安定だったので、つねにほかの人間との親密な結びつきにすがり、ほかの誰かの魅力に自分自身をつなぎとめようとした。
(14章より)

こういう若い時代の栄光浴しぐさを大人になってから振り返ると、他人をあてにしない人生を考えなければいけない現実に追い込まれる。
さらに、自分の失敗について “自分は本来こんな人間ではない” と思っているうちは繰り返す。え?ほんと?そうかなぁ。と、どうもその論調に入っていけないわたしの「スピリチュアルな雰囲気の自己啓発トーク」への猜疑心を、バチーンと現実的にぶっ飛ばす気持ちよさ。そう!わたしが欲しかったのはこういう精神論抜きの話! 反省も立ち直りもそれぞれに物語があるはず。

「失敗した時にあなたがわたしにかけた呪いは、せいぜいあなたの仮想復讐結果でしかありません」と、そう言えるようになるまでのあれこれをこんなふうに済ませることができたなら、どんなに素敵な人生だろう。

 

そして中盤で主人公がアンジェラという若い人に語りかけるこのモノローグが、とにかく最高。

 アンジェラ、あなたに知ってほしいのは、わたしが、人生のある時点から、涙を利用するのをやめたということ。わたしは、涙の洪水を持って人生の困難に対処するのをやめた。なぜなら、そこにはなんの尊厳もないから。
(22章より)

この本はこの辺りからもう読むのを止められない。
えっ、ええっ?! と驚かされているうちに、生きることに大げさになる意欲を削がれていく。そしていつの間にか、わたしも巻き込まれてる。

 

他人をあてにする人間を嫌う人の豪快さと弱さ、それに気づいて開き直る人と反省して道を探す人、それぞれの苦しさと支えあう姿が忖度なく書かれていて、逃げないかっこよさと醜さが平等に描かれていることが新鮮だった。
逃げる正直さを肯定する「尊重」の物語にもう飽きていることに、この小説を読むことで気づいてしまった。多様性だのギャップだの分断だのを語ることで前に進んでいる気分になるムードにどこか疎外感を感じている自分が、むしろもっとゴリっとしたしつこい「尊厳」の物語をこんなにも渇望していたなんて。
読み終えた後で強烈に、そう、こういうのが欲しかった! と思えるなんて。読書ばんざい。