先日、友人の毎年恒例の家族のエピソードを聞いて、人生で起こるイベントとそれに向き合ってきた時間の感覚というのはおもしろいものだな、と思うことがありました。
わたしには何人か、会えばなにかと反省会になる友人がいます。
後悔はするものだと思ってる
ライフステージのあれこれを知っている同世代の友人と話していると、あなたそれ後悔してるよね、と言われます。お互いにそういう話をします。
「それは200%後悔してる」「半分くらい後悔してる」「ちょっと後悔してる」と、その構成比は変動するものの、過去の選択には後悔がある前提で生きています。
そのくらいにしておかないと、難しい選択ばかりだったと思っています。
「後悔してない」って、威勢がいいだけで中身空っぽじゃない?
わたしは、後悔は上手に掘り下げることで価値が生まれるものと思います。
恥の感覚のディテール
先日紹介した師匠の「爽快な気分について」というエッセイに、こんなことが書いてありました。
ほかの苦しみなら理性が取り除いてくれるが、悔いというのは理性そのものがつくりだす。つまり理性が廉恥心といっしょになって、自分で自分を懲らしめる、それが悔いなのだ。
(「爽快な気分について」19より)
ここでわたしは廉恥心(れんちしん)という言葉を知りました。羞恥心(しゅうちしん)ではないところが気になり、調べてみました。
- れんちしん:sense of honour
- しゅうちしん:sense of shame
ここで語られている「悔い」は、正直さを捨てたことを理性が責めている状態です。
日本語にもこんな微細な棲み分けがあったなんて知りませんでした。
後悔は正直さのあらわれ
“後悔しないために選択をしてきたけれど、それが良かったのかどうかは今もわからない。もっとあとで後悔するかも” と思うことが多いのが人生の中盤期にどーんとあるのは、時間軸で考えたら当たり前のこと。
だって平均年齢で考えてみたら、前も後ろも、今がいちばん時間が多くあるんだもの。ミドルなんだもの。
若い人と話していれば、それが後悔することでも突っ込んで行きたい気持ちがわかります。
これは過去を振り返ってのわたしの現在の感覚ですが(”カッコ当社比” ってやつです)、「後悔するかもな・・・と薄々思いながらやって、やっぱりちょっと後悔してる」ということまで含めたら、後悔を含むものが全体の中の8割を越えます。
この比率を聞いて、どうでしょう。多いと感じますか?
わたしの場合は「後悔してる」と思えている自分の正直さがそこを盛り返すパワーにもなっているので、後悔の8割をそこから半分くらいにする力が同時に内包されています。
そこで相殺された分を割り戻すと、最終的に後悔が5割を下回る。
そんな感じです。
後悔しながら同時に “自分は成長する気があるんだな” という感覚もある。
たぶん中年期って、時間を量の動きとして捉えたときに、そういう時期なのだと思います。
後悔しながらも前に進もうとしている。
失敗は怖れます
失敗すると凹みますし、悔しいです。やるせないです。
行動すれば一定の比率で失敗や失敗めいたことが起こります。
で、わたしはそれを恨めしいトーンで記憶するかそうでないかの境界に「後悔の素」があると思っています。
後悔を認めることができれば、「こうしたかったのかも」と、心の中で薄目を開けられます。
後悔していないことにしようとするときは、心の目をぎゅっと閉じています。
「後悔してもしょうがない」というのは、その案件について取り返せないという意味ではそうだけど、後悔しておくと賢くなれるので、後悔の成分も話せるといいよね。