うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

箱男 安部公房 著

満月の日に制御できなくなったエネルギーで書いたような、ホルモンバランスの乱れた、というか溢れた臭気がたっぷり。ラム酒を入れすぎた洋菓子みたいなこういう精神のワイルドさのようなものって、当時の人にウケたんだろうなと思いながら読みました。
覗き見をする罪悪感というのは、わたしはとても健全で共通認識として持たれるべきものと思っているけれど、この信条の共有のしかたはとても難しい。

 

こういう気持ちを様々な角度から切り取る方法として、段ボール箱に入るというシンプルなアイデアを使って、著者はその複雑な心理をあの手この手で語ります。中の人がズボンを盗まれたときに命綱を絶たれたような気持ちになったり、生活用品紹介の場面はまるで流行りのミニマリストそのもの。妙なおかしみがある。


いっぽうで現実を見てみれば、いまはパソコンやスマホの画面の前で箱男のようなことができる時代。そのひとつひとつの個体が箱男のような精神性を備えていると思うと、ちょっと恐ろしい。でも現実よ。あなたは自分の検索履歴をべろんと抜き打ちで身近な人に見せることができますか?

あとは理性の問題。

 

箱男がそれを自覚していることを語る以下の部分は、ふむ、と思う内容。

 ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人間は毛を失ったから、衣類を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろうと伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。
(書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって より)

わたしはもともと自分の醜さを心得る感覚が鈍いと自覚しているのだけど、それを今後はさらに鈍らせていくことになるのだろうか。以前そんなことを少し考えたことがありました。「見ること 見られること」の社会の中での関係性は、それぞれの角度から価値観が削られたり加えられたりして、いつも適切な対応がつかめません。

はじめてインドへ旅行へ行ったときは上記の引用文章の中にあるような「こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろう」が全く通じないことが新鮮でした。でもいまは通じるようになってきています。いっぽうで日本ではそのへんの人が自らブロードキャストをして「チャンネル登録お願いします!」という時代。視点はいつも相対的に変わっていく。
わたしはよくこの価値観で混乱します。迷える子羊状態。なので上記の引用内の「人類の九十九パーセント」という強調は思春期っぽいフレーズで懐かしく、この小説は全般、レトロでノスタルジックで、とても漫画的。

 


以下のような一文にも昭和の漫画っぽさが存分に漂います。

「ア」行の音ぜんぶを混ぜ合わせたような悲鳴に、ぼくは汗ばむ。

末尾はまるで歌詞のような、なんとなく既視感のある気持ち悪い空気感。
この物語の中の人物は、女性のトイレを覗いていることを「ひかえめで内気な愛情告白」と正当化したりもするのだけど、ここで「ひかえめ」という表現を選べてしまう気質、そのあつかましさに自体に病名をこしらえるのはなかなか難しいことです。人権問題に踏み込まずに定義するのが難しいゾーンだから。だからこそ、覗き見されることは苦しいのだということが共通認識として確立される必要がある。

 


この物語にはいくつか挿絵ならぬ挿し写真があって、ひとつの画像に、こんなキャプションが添えられています。

 小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。
 雨のしずく……濡れてちぢんだ革の手袋……
 大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる。
 国会議事堂だとか、世界地図だとか……

自分よりも強く権威のある存在をありありと見ると死んでしまいたくなったりするのも、小さなものと比較して自己を立て直すのも普通っちゃ普通なんだろうけど、この時代は露骨に学生や女性をなぶる。

 

この本の中に、こんな記述があります。

ぼくは間違っていなかった。失敗したかもしれないが、間違ってはいなかった。失敗は少しも後悔の理由にならない。ぼくはべつに結末のために生きて来たわけではないからだ。

(そして開幕のベルも聞かずに劇は終った より)

例えばわいせつ罪の公判で、女性は本来男性に触れられると悦びを感じるのだから行為そのものは間違ってはいないという人がいる。相手がそういう気持ちの時ではなかったのは失敗だったけれど、本来は悦ぶはずのものだからという。今後も繰り返す理由と正当化の論理がつきつめられている。この本を読みながら、そういう人もいることを何度か思い出しました。

 

人には失敗を責められることよりも、もっとしんどい責められゾーンがある。そこに攻め込まれると死にたくなる。「生」を肯定するためのステップとして、箱に入ってみたことは成功だったのか失敗だったのか。

だから失敗だってかまわなかったのだよ!と、作者は言っているのかな。気持ちはわかりたいのだけど、わかっちゃいかん気がするよ。

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)