冒頭がいきなり「知らんけど」と言いそうな調子で始まる恋愛論。恋というものに突きあたらずに結婚する人もあるかもしれないと、いまの時代の感覚で読むととても自然な考えに見える語り口。そして最後まで自然。
「愛す」というとキザだから「すきだ」と言うけど、そうするとチョコレート並にしかすきでないような力不足感だから「とてもすきなんだ」と力むことになる。(うんうん、そうだそうだ!)という感じで、合いの手を入れたくなるリズムで進む。
著者はそもそもそれ以前に疑っていることがあるという。そしてその疑惑はわたしも!と便乗したくなるもの。
わたしたちの使っているような日本語でコミュニケーションを取ろうとしている以上は、相手に寂しさを感じさせない提案力ありありの相手が素敵に見えるのはごくごく普通のことじゃないか。わたしがずっと思ってきたのはこういうことなのだけど、そこはさすがプロ。簡潔に言語の問題を片づけて、ちゃっちゃと先へ進む。
この恋愛論は途中から「魂の孤独」に切り込んでいきます。それも唐突さはまるでなく、シームレスにすーっといく。
このあたりから、ふとタゴールの言葉が自分の中に浮かんできました。坂口安吾とタゴールはアウトプットの調子だけみればまるで逆の人だけど、一周回って合流する。
人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする。即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。
タゴールは美しい詩を書くけれど、小説「唖娘スバー」では現実も現実、どれだけ現実よー!ということを書いているのだけど、詩はまったく違っている。ああ、この人たちは "ときめき" の正体を知っているのだと思った。
恋が美しくときめく対象であるというからには、そうでない瞬間の自分を認めなければならない現実がある。ほのかな恋を賛美するからには、ほのかな悪魔的感情も認めなければならない。
それはさておき、わたしはチョコレート並にすきなひとがたくさんいる人生がいいと思いました。