名前だけは聞いたことのあった有名な『夫婦善哉』というお話を、映画で観てから原作小説を読み、その内容を知りました。
そもそも夫婦の話ではない(既婚者と愛人の話)ことが序盤でわかり、あれよあれよとその世界に巻き込まれました。男のクズっぷりにムカムカし呆れながらも、それでも “この人ならアリな感じ” がわかってしまう。
なんかものすごい精神の寄りかかり世界。
原作小説
文章で読むと無心する金額や年齢などの数字が明確に情報として入ってくるため、それでも離れられない女性の気持ちを推測しながらついていくのは、現代の「情」の感覚ではむずかしい。それが、事前に映画を観ていたことでストレスなく読めました。
長編ではなく中編くらいの長さで、映画版は原作を圧縮して2時間にされたものではなく、むしろ豊かに膨らんでいる。女性を助ける芸者仲間やオーナー(浪花千栄子さんがやってる!)とのやり取りの部分が魅力的な脚本であることがわかります。
この物語を雑に要約すると【31歳の既婚子持ちニートが親にお金をせびることができなくなり、20歳の売れっ子芸者に金を無心しまくって10年以上一緒にいる話】です。
芸者と一緒に住むようになってからは、まだ若い彼女を「おばはん」と呼ぶようになって、なんというの、こういうのは・・・。今の時代でもあるやつ。
こういう、 “もうお前はこういう形で存在価値にコミットしたのだから、ほかの世界で価値があると思うなよ” と自尊心を静かに根絶やしにしていくコミュニケーションって、日本の男女間あるいは雇用契約など、ズブズブの関係を盤石にしていく過程のド定番。その原型のような物語。
小説では、そもそも女性の中で幻想が脳内で立ち上がっていた様子も説明されていて、ここは文章のほうがわかりやすいです。
こんな人物描写がありました。芸者から見たクズ男の初期の印象です。
柳吉はいささか吃りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好がかねがね蝶子には思慮あり気に見えていた。
この作家の表現の魅力はここにあるな! と感じた部分です。
映画版は魔法がかかる
主人公のカップルの組み合わせは淡島千景さん(芸者)と、森繁久彌さん(既婚子持ちニート)です。
淡島千景さんのことは、もともと好きでした。森繁さんは子供の頃からテレビでお爺さんのイメージが刷り込まれすぎており、あのお爺さんと同一人物と思えないのに声質は同じで、なんとも不思議な感じでした。
その森繁さんの色気がとんでもないのです。なにこれ。魔法使いなの?!
若い頃の森繁さんは『東京の恋人』『小早川家の秋』という映画で観たことがあったけど、いずれもチャーリー浜を想起させる三枚目の金持ちという役柄。子供の頃にテレビで見たおもしろお爺ちゃんのイメージから逆算・想像できる役柄でした。
それが、この映画だと全く違う。森繁さんの色気がとんでもないことになっています。
この人クズだけど、好きになっちゃうのもわかる・・・という感じがする。恋の魔法の再現性が恐ろしくて。
とびきりハンサムなわけでもスタイルがいいわけでもなく、しかもニートで頼りにならない。だけどなんだか一緒に居たい。この人が自分の一部だと思えることで人生が彩られる。その感じがわかってしまう。
この魅力があまりに不思議で。
眠れなくなるほど不思議だったので、無理やり頭を整理して魅力をピックアップしました。以下の3つでした。
- 滑舌の良さ(原作とは逆で、めちゃくちゃ饒舌)
- 美味しい食べものに対する審美眼と提案力
- 肌と髪のツヤ
上記以外は褒めるところがないのだけど、この3点だけで押し切れちゃうところがすごい。
この魔力を実写版でキャラクター化することが奇跡的に成功したような映画に見えました。
この魔力をあらわす言葉を探すと・・・たぶん、これです。
飄々としている
いわゆるスナフキンのような、ああいう孤独を愛するキャラ作りとは違って、利用できる人の懐にうまく入って出てを繰り返していける “こだわりのなさ” がある。クズ力が高い。
寅さんから高度経済成長期のダサさを徹底的に引き算し削ぎ落とした感じ。
ダサくない寅さんって、やばくないですか。惚れそうじゃない?
自分で飄々としている気分の男性はこの世にたくさんいるけれど、本物は少ないものです。
ほんとうに飄々とできる人は詐欺師としてまんまと成功できるレベルにいるはずなのでね。
この「飄々」の魅力に既視感が!
飄々とした人って、なんか独特の魅力があるんですよね・・・。
旅先で恋が発生しやすいのって、こういう「縛りのない心の寄りかかりの魔法」によるものと思うのだけど、そんなことなぁい?
わたしは映画「夫婦善哉」の森繁さんと、映画「蛇イチゴ」の宮迫さんに、全く同じ種類の魅力を感じました。
この映画です。
こんなハマり役ってある? というくらい宮迫さんが飄々としていて、魅力的で、クズなんだけど一緒に居たくなる。
この物語は兄と妹の話なので恋愛関係には発展せず、「夫婦善哉」とは逆の方向へ話が進んでいくのだけど、一緒に居たくなる瞬間の再現性という点で、あの森繁マジックがここに!!! と思う瞬間が何度かあります。台所の兄妹のシーンがやばい。
誰かこの魅力を分解して説明して名前をつけて。
この昭和的ストックホルム症候群みたいなやつにタイトルをつけて額縁に入れて最適な場所に置いて絶妙なマーケティングで多くの人にリーチさせて、「ああ、あの、あれよね」と、誰かと共有できるようにしてほしい。
映画や文学って、こういう思いから生まれるものなのかー。
というのを、久々に強く感じました。
人は自由を求めているようでありながら、振り回されたいんだよね。
先日、古い映画をたくさん観ている学生時代からの友人に「昔の森繁久彌と雨上がりの宮迫って色気そっくりじゃない?」と訊いてみたら「わかる!!!」と即レスだったので、ここにも書いてみました。この感じ、わかってくれる人いるじゃろか・・・。
(おまけ)
▼補足したい感じをおしゃべりで録音しました