未消化の感情、行き場を失った感情、見ないことにしていた感情、これらはなんとなく悲劇の色で表現されているけれど、それを思う現時点では「記憶」。陰ヨガでの内省から、ふとそんなことを考えました。
記憶は自分の中だけで脚色されたり書きかえられたりする。記憶を物語の一部として「まだ生きてるぞ」と保持したがる気持ちにも目を向けなければいけない気がして。
サラ・パワーズさんの本の以下の文章を読むまで、わたしはこんなふうに考えたことがありませんでした。(以下の引用箇所についてはこちら)
自分がつくった物語ではなく、有りのままを観察していると、恐怖によって覆い隠されていた直感やインサイト(本質を見通す力)が段々現れてきます。
<34ページ 感情における特性 より>
「自分がつくった物語」という表現が、ガツーンと響きました。
人は感情を自分自身に向けて主張したい生き物なのでしょうか。それとも、心の中で誰かに向けている? 怒りと恨みの境界を見るなら、このあたりに分岐点がありそうです。
感情を栄養にして記憶も生き続けるこの相互依存の関係は、なにか策を講じなければ(あるいはすこーんとボケなければ)死ぬまで続くもの? こう考えると、記憶がなくなっていく機能が救いにも見えてくる。
「自分がつくった物語」という表現が、考えるきっかけになりました。
すこーんとボケる感じでもなく今のところ元気。そして社会生活上、行き場のない感情を健全に生かす場所はない。これが、客観的に見た現実であるときに
「まだ生きている」と「まだ生きているぞ」では、
そのエネルギーのありようが違う
「まだ生きている」をみることが「ありのままをみる」のだとしたら、「まだ生きているぞ」は、「ぞ」を向けたい対象の存在によって、ありのままをみることをむずかしくさせる。他者の存在を含んだ、ベクトルを持った感情だから。
この障害物の存在の話をすっとばして「ありのまま」と言われると、まるで自分だけが卑屈で汚れているみたい。そんなふうに思う人って多いんじゃないかな。
「いま、ここ」というフレーズは、もう少しブレイクダウンして理解したほうがいいかもしれません。
例えば、こんなふうに。
「過去や未来の自分の代弁者に、現在の自分がなっている状態」を
「現在の自分の代弁者に、現在の自分がなっている状態」に変える。
これがいわゆるマインドフルネスに近いものだろうと思います。現時点で、わたしはそのように理解しています。
そして
「いまわたしは、過去の自分の代弁者になりたがっている」
「いまわたしは、未来の自分の代弁者になりたがっている」
時間軸をまたいでいる状況を認めないと、「いま」がわからなくなる。
瞑想でのつまずきは、この時間軸のとらえかたの混乱にあるように思います。過去や未来に囚われている瞬間の自分を観るのは、とてもつらいことです。
こんなふうに考えていくと、過去や未来の自分の代弁者に現実世界の他者がなってくれていると感じる状況の見かたが変わってきます。
なんで人は「代弁者」を求めるのか。まるで、生きているだけで恥ずかしいみたいです。いつもは一人でやっているそれを、現実世界の他者がやってくれると負担が軽減される。重い荷物を半分持ってもらったような気持ちになります。
いつもはそれを、みんなひとりでやっているんですよね。
この架空の代弁者に休息を与えることがマインドフルネスだと思うと、瞑想の重要性が身に染みてきます。架空の代弁者はとても働き者で、わたしの自尊心をなんとか守ろうといつも前面に出てくる。乗っ取られないように、休みを与えなくちゃね。