うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない 東畑開人 著

心のはたらきを社会環境と重ねながら言語化できる現在の書き手として、今めちゃくちゃ期待されている人。そんな印象を持つほど、都内の書店でお名前を見ます。

 

いつかこのことについてじっくり書けたらと思っているのですが、わたしは『居るのはつらいよ』を読んだときに、ヨーガ・ヴァーシシュタのなかで説かれている becomingbeing の話を日本の現代社会版で書いてる! と感動し、以来、注目せずにいられなくなってます。

 

わたしはその前に『野の医者は笑う』を読んでいました。その本は日本のスピリチュアル界隈のディープなところにがっつり入っていく話で、わたしが内心思っていてもブログに書かないようなことが、著者の言葉で正直に記されていました。

 

上記を抜きにしても、この本の著者を同時代で追いかけたい理由があります。

この本の序盤に以下のように書かれていました。

 若手だったときにはわからなかった社会の海鳴りが、中堅になると聞こえてきます。

 それは多分、僕も少しは、世の中とか、世間とか、社会に触れたからだと思います。

どうですか。アラフォー、アラフィフ、アラ還暦のみなさん。

 

 

いまの社会の海を渡っていくのには、大型客船に乗っていても安心できなくて、いつでも素手で泳げるようにしておかなければ。そんな気持ちで、休むにしても立ち泳ぎ。

わたしの思っていた感覚を、著者は「小舟化する社会」と言います。

 小舟化する社会。そこでは、遭難しようが、沈没しようが、自己責任。確かだと思っていたつながりも次々と切れていく。だから、小舟はひとりでサバイブしなくてはならぬ。

(まえがき 小舟と海鳴り より)

視点を最初に設定しないとその先の話を深く掘れない。

この初期設定がしっかり行われていて、そこから核心に迫っていきます。

 

 

高度成長期の残像と慣性を知らない世代の人が日々考えていることの言語化の鋭さといったら。

 純粋なポジティブは幸運としてときどき訪れる分には良いとしても、その状態を維持しようとすると、つらいことになります。

(7章 ポジティブとネガティブ、そして純粋と不純 より)

この章を読みながら、先日友人夫妻から聞いた話を思い出しました。

年配の人と関わるときに、それを自然な友人関係のような額縁に入れられるのがしんどいと言っていました。その関係がもう数年に及んでいることをわたしも知っています。

わたしも友人たちと同じ年齢の頃に(30代後半〜40歳くらい)、年長者から「年の離れたお友だち」にアサインされて苦しくなったことが何度かあったので、その気持ちがよくわかります。

 

 

わたしはそのような関係性の中間にあるものを、当時は言語化できていなかったけれど、著者の言葉を借りると “不純なポジティブ” と認識していました。

不純なポジティブは不純なポジティブのままにしておけばよくて、そこから深みが生まれてきます。それを片方だけが純粋なポジティブと思い込もうとすると、別の片方がその虚像を支える形になって、それが負担になります。

 

わたしは自分が若手側の年齢の頃、そのモヤモヤを分解できませんでした。自分のなかに「年長者は人生経験があるのだから、自分よりもわかっているもの」と思い込もうとする気持ち(そう思っておかないと言動が失礼になってしまうことへの抑制)がありました。

こういうことを人生経験ではない切り口で説明されることで、心が整理されました。

この本では「補助線を引く」という言いかたをされています。

 

 

 

スッキリとモヤモヤについてじっくり書かれているのも良いです。

 スッキリだけでは心はガリガリにやせ細ってしまうし、モヤモヤだけでは心はパンパンに膨れ上がってしまう。

 何か食べたら、消化もしなくちゃいけないし、排泄もしなくちゃいけません。両方ないと心も体もうまくまわっていかない。

(6章 スッキリとモヤモヤ より)

スッキリって、一見聞こえはいいけれど、スッキリする方法だけを話す人を信用するかといったらそれはないし、抱えていることを共有する気にならないものです。

どんなに知り合いが多くても、悩み苦しみを話せる友人が「多い」ってことは、たぶんないこと。

 

 

この本には、若手だった頃には見えなかったこと、心の成熟について考えさせてくれる題材がいくつもありました。

著者はこのように言います。

孤立とは一人でぽつんといることではありません。それは心の中で敵たちに取り囲まれていることなのです。

(3章 働くことと愛すること より)

本の性質を鑑みて、本のなかにある人物の設定に触れないように感想を書いています。

この本はエッセイでも小説でもなく、再現ドラマとその解説のような形で進んでいきます。

なんでタイトルをポエムっぽくしたのだろう。