売上を作ることができる人は優秀です。
優秀な人には華と勢いがあるけれど、これからは有能な人が優秀な人に押しつぶされず、そのまま有能な人材として仕事ができるといいですよね。
その理想のために、会社組織の改善のために出版された本として希望がある内容でした。
むずかしい本は読み解けなくても
1972年にすでに提起されていた集団浅慮(グループシンク)という概念や、そこに至る日本の組織への問題提起と分析が一冊の中に詰まっていました。
なかでも以下の本は自分で読んでもわからないと思うので、リアルタイムで起こった事象に重ねて知る体験になりました。
以下の本にある重要な内容も、終盤の章と関連して紹介されていました。
企業の中の男と女 ―女性が増えれば職場が変わる―
著作者 ロザベス・モス・カンター [訳] 高井葉子
「楽しいテレビ」を作り上げてきた人たち
フジテレビが暗かった時代〜隆盛期への流れが読みやすく書かれていました。
わたしも著者と同世代。1980年代に始まった『オレたちひょうきん族』には馴染めなかったけど(ドリフ派でした)、そのあとに夢中で見た『Dr.スランプ アラレちゃん』もフジテレビ。
そこからワイワイワールドに誘われ、とにかく陽気で、テレビを見るのが楽しみでした。
この本は、あの高揚感の身体記憶が強すぎて人権知識を持たないまま中年になってしまった世代に課題を突きつけてくれます。
視聴率を作る人が優秀とされる組織では人権が邪魔になる?
この本を読むと、フジテレビの問題で犠牲となった社員A子さんが退社を決意するタイミングのあたりが、最もつらい読書体験でした。
売上や視聴率を作る人が優秀とされる世界では、尊厳を捨てて献身できなければ居場所がない。
そこに追い打ちをかけるように、企業のお抱え弁護士が本来であれば被害者の味方であるはずなのに、加害者側(=有力取引先)の代理人を務める形で示談交渉が設定されていました。
若い女性社員が飲み会に差し出される光景は昭和生まれ世代には見慣れすぎたもので、被害者女性はモーパッサンの『脂肪の塊』のような追い詰められ方をしたんだろうな……と想像していたのだけど、この示談交渉の話はそれ以上に強烈でした。
まるで島崎藤村の『新生』のよう
この異様な座組へと進む流れを読みながら、島崎藤村(当時41歳)が、家事手伝いに通っていた自分の兄の娘(当時20歳)を妊娠させ海外逃亡したことを告白する『新生』という小説を思い出しました。
その小説では、娘の妊娠を知った兄が激怒する場面を覚悟してページをめくるのに、そういう感じにはならず、娘の出産した子を養子に出し証拠隠滅するところまで「あとは始末しておく」という感じで兄が弟の逃亡を支える展開に驚かされます。
妊娠・出産した姪は小説の中で、叔父に親愛の情を持ち自然な流れで身を任せて恋を知った従順で自我のない女性として描かれています。
この小説で主人公が行なったこと(=筆者の島崎藤村が自我を守るために行なった幻想づくり)と同じことが、ひとりの思考じゃなくても、集団でも起こる。家族組織でなくても、令和の大企業でも起こる。
明治時代の小説との共通点があるくらいなので、これはなかなか根深い問題です。
喩えが秀逸
この本は後半に入る第3章から少しずつ希望へ向かっていきます。そうじゃなけりゃあ、とてもじゃないけれど読み進められません。
第3章はとても印象に残る章で、組織の中の男女比が「転校生」に喩えて説明されている箇所がありました。
男子校が数年前から共学になって、まだ女子がほとんどいない段階でそれを知らずに入学した女性転校生みたいな感覚で慎重に仕事をしている人って、まだまだたくさんいますよね。
どんなに能力の高い女性でも、比率として5人にひとりでは永久に桃レンジャー枠の入れ替えでしかないんですよね。
男女雇用機会均等法(1985年)はあくまで「機会」が均等になったのであって、条件まで均等だと思うなよ、という現実を東京医科大学の女性受験者への仕打ちで知ったのが2018年のことです。
社員の人権の話
日本が資本主義でやっていく上で、社員の人権を資本にせずに売り上げを作れる国になれるか。
この本では女性が組織の中で目立つ成果を上げることを避ける理由(あるいは実際に上げても隠す理由)が第3章解説され、しかもそれがただの分析で終わらずに最終章につながっています。
就労人口が少なくなるから女性にも枠を解放するしかない、という意味の言い換えでしかなかった “女性活躍社会” がこれからどう変わるか。
自分をかわいらしく見せたいときには「僕」、中身は「俺」、迷うときには「自分」、だけど集団になると中学生みたいに「オレたち」「オレら」になる。
そんな中高年を子供の頃から見慣れているから麻痺しているけど、これは、貴社は男子校企業のままで行きますか? という問いかけのよう。
みんなが「私」「私たち」になる必要がある。
* * *
せめて会社の中では、存在としてみんなが等しく「私」で在れるほうがいい。
そう思っている年長男性も決して少なくないのだけど、「オレたち」から仕事(売上→利益→給料)をもらっている気持ちがあると、その感情に蓋をしてしまうのでしょう。
この本で問題視している「同質性」自体は、女性たちの集団「あたしたち」の世界でも起こること。
企業が「私たち」であるために人権の知識をつけようというのは、あまりに基本的すぎるけれど、日本の場合はまずはそこからなんですよね。

