うちこのヨガ日記

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心をざわつかせるものに関わりたくない気持ちを表明する権利(島崎藤村「破戒」読書会での会話から)

先日、島崎藤村の『破戒』を題材にオンラインで読書会を行ったら、これはオンライン開催のメリットだなと思うことがありました。
それは、関西と関東の温度差です。関西で育った人が半数以上を占める状況で、それ以外の地域で育った人が聞かせてもらう同和教育の話、さらには教育機関側の立場で見えた経験をお話しくださったかたもいて、今日のタイトルにある側面についても話しました。

 

 

 

 差別感情が根源的なものであるからこそ、

 心をざわつかせるものに関わりたくない気持ちを表明する権利は、

 対応がむずかしい。

 

 


『破戒』という小説は、その話題に触れてくれるなという感情を、差別を受ける側が持っている状況を延々書いている。そういう話でもあるんだなと、同和教育に反対する人を見てきた人のお話から考えました。
小説のなかでも、誰もその話をしない時間は穏やかでやさしい空気が流れています。そしてそこには別の差別が “普通に” あって、女性や子供が犠牲になっています。

 

 


参加者のなかには、女性への家庭内性暴力のほうが気になってしまって気持ちをそちらへ持って行かれてしまった、というかたもいました。
養父(寺院の僧侶)による養女への家庭内性暴力に養母が気づきながら、養女も養母も「あの人は困ったもので……」と悲しみを共有しています。
この女性二人には、「ありえない!」みたいな主張をするマインドがそもそも見えません。主人の性欲の抑えられなさを嘆き、自分が犠牲者であるという感覚をふくらませずになんとか精神を保つ様子が描かれています。

この小説に出てくる「蓮華寺」のモデルとされた寺院の人は、この描かれかたでものすごく迷惑したという話があるので、養女への性暴力への批判の目は当時からあったとして、それはそれとして、それが起こる環境はいつだってブラックボックスです。

 


『破戒』のなかで描かれる男尊女卑の感覚は、現代では理解しずらいですが、当時この作家の周辺ではそれも容認できることだったのだろう、ということが『新生』を読むと見えてきます。

島崎藤村は自分の兄の娘(=姪)を家庭内で妊娠させており、たしか当人が45歳くらいで、姪は21歳くらいの頃の話です。
島崎藤村はそれすらも小説にする作家です。読書会の当日は本題から逸れすぎるので(文学や文学者を語る読書会ではないので)、詳しくは話しませんでした。

 

 

島崎藤村は、自分が強姦をしながら、強姦をされる側が「自分は犠牲者ではない」と脳内で書き換えるところまで想定して文章化して物語にしてしまう作家。わたしはそのようにこの人物を見ています。
尊敬はしていません。

 

尊敬はしていないけれど読んでいます。

自分に好都合な思考の書き換えをどこまでも言語化して発表し、長生きした作家。

そこまでできる業ってなんなの? どんなカルマを背負っていたの? と思わされます。

この『破戒』の読書会をきっかけに、そういえば『新生』は、「心をざわつかせるものに関わりたくない気持ち」を表明する権利を主張した小説なんだよなと、そんなことを思いました。

 

 

▼「イラストや」に存在しているくらいなので偉人枠です