少し前に読んだ『55歳の教科書』に、入念な取材に基づき描かれた作品で読んでいて身につまされたと紹介されており、気になって読みました。
この作家の小説を読んだのは初めてですが、以前エッセイを一冊読んだことがあり、決めつける形から詳細に入っていくスタイルであることはなんとなくわかっていました。
小説をはじめて読んでみたら絶妙にイライラさせられる内容で、会話とモノローグの切り分けでテンポよく読ませるのがうまくて驚きました。
最後まで読んで、この小説が女性誌『マリソル』の連載だったとあり納得しました。
二子玉川に100平米のマンションをローン返済完了の状態で定年退職した、元電通の役員の60歳からの数年間が小説化されたような内容で、現在70代前半の人の15年前くらいのことが描かれています。
あの頃ってまだそんなに年賀状とかお歳暮の慣習が東京でも残ってたんだ・・・と、ものすごく昔のことのように思えましたが、セグメントで住み分けされたマッチングアプリやパパ活が登場する前のあれこれがリアルで、まーーー気持ち悪いことったらない話です。
前半はページをめくるごとに、普段は心の中でもなるべく使わないようにしている ”キモ” というサウンドが脳内で鳴る、そのくらいのキモキモ絶叫エンターテインメントだったのですが、後半のある場面から、「あ、これ、なんかリアルだ」と思いました。
夫と距離を置くことで立ち直った妻が、久しぶりに会った夫にヨガ教室のアシスタントをはじめると言い出す、こんな場面があります。
「おまえが、ヨガを教えられるのか」
「だから、その先生の助手ですよ。もう五年も続けているんですから、そろそろ資格を取りなさいって」
たしかに、妻がときどきヨガの教室に通っているとはきいていたが、こんなことになるとは思ってもいなかった。
「それ、恥ずかしくないのか」
「なにがよ」
(第十一章 妻の帰宅 より)
「助手」という日本語のシブさがたまりません。
会話はこの後、妻が「ヨガを教えることが、どうして恥ずかしいのですか」と反論する展開へ進むのですが、その間に主人公である夫が考えていることにプライドの病理が凝縮されています。
これについてはわたしも愚痴の手前のような、いろんな話を聞いてきました。
この小説の主人公は、わたしが4年前にまとめた以下の、まさに第三者の立場の人。「妻は以前はもっと従順だったのに、性格が悪くなった」と考えています。
ヨガって、ヨガの論理やルーツに興味があるわけじゃない人にも、ちょうどいいんですよね。この物語のこの流れでヨガを選ぶあたりに、著者と編集者の手腕を感じます。
当事者の男性にも、その妻に共感する女性にも読ませる小説。
いまどきよくある小説のフワッとした気持ち悪さではなく、ど直球のキモキモ絶叫エンターテインメントに急に楔を打ち込んでくる感じが、昭和平成の売れっ子作家の底力。
失楽園とか鈍感力とか、時代を切り取りながら希望を与えるスーパー・パワーワードを繰り出してきた人の観察眼の鋭さを思い知りました。