うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

許せていないときには、存分に息が吸えていない

先日、練習の前の雑談で、わたしのヨガの説明について「あんまり聞いたことがない説明だった」と言われたことがありました。

 

 

  息が吸える胴体の状態にしましょう

 

 

一年前くらいから、この言い方が自分的にしっくりきています。

 

 

 

日々の思考と判断の蓄積で胴体が縮まるから

身体を動かすアーサナ(ヨガのポーズ)の練習するとアクティブになって、特に挙動と呼吸がセットになった動きは気持ちがいい。

これは多くの人が経験することですが、ひとりで何かをしている、あるいはしていない(黙って思考している)、日常の蓄積で見たらどうか。

 

ヨガは思考や記憶によって制限される脳も含めた全身へのアプローチで、その「制限される」「キュッと縮こまってしまう」ときの状態から抜け出そうとするものです。

停滞の状態からエネルギーが流れている状態へ至るまでの鍵に、挙動としての「多くの吸気」がある。

 

 

    吸えない状態の身体がデフォルト化しないように

 

 

肋間筋・横隔膜を内側からアクティベートする習慣が、この先もまだ判断の連続になる人生で、重要だと思っています。

ひとりのときにじっと考えてしまうことってあるから。

 

 

許容までの時間薬

これはここ数年、同世代かそれ以上の人と話して思うことなのですが、「時間薬」の効用を知っている人の話を聞けることが、人生の醍醐味と感じます。

なにげない会話をきっかけに「今となってみればわかるのだけど」という小さなトピックが発せられる瞬間に、その人が静かに輝く。反省でも自責でも自虐でもない、客観力のなせる技としての輝きというのがある。

若い頃の反発の炎とは違うものです。

 

反発のあとに起こることが変わってくる。

例えば、これはわたしの日常で頻繁に起こることなのですが、「いい感じでよろしく」と丸投げされるような仕事が起こった場合に、その状況を許容するまでに時間を要します。

そしてしばらくして呼吸が整ってから、作業に取り掛かる。そんな日常があります。

 

その呼吸が整うまでの間に深読みや類推をしないこと、連想ゲームをしないことがいかに大切であるか、その思考は自分の仕事ではないことを理解できるようになってくるには長年の経験が必要でした。

 

日常で自分のための「深呼吸」ができるようになったのは、つい最近のことなんじゃないか。わたしはそんなふうに感じています。

 

 

許せていないときには、まだ存分に息が吸えていない

今日のタイトルにした「許せていないとき」というのは、「納得までの時間」のことを指しています。過去の回想でもこれは起こりますが、やさしい社会の日常では「いいですよ」と応対することが半分以上どころか9割以上。その瞬間の分だけ、肩幅も胴体も縮んでいます。

 

我慢とも抑制ともちょっと違う、許容に至るまでの時間という感じ。

その時間の総量で肩が凝ったり疲れていると思えば、なんかいろいろ腑に落ちる。

 

許せない感情のエネルギー源は自尊感情とエゴだけど、それがなければ今日この世で社会の一員として機能することもない。

「吸える量」をバロメーターにしてそれを少しでも増やそうとすることが、言語化できないストレスの解消になると思っています。

 

記憶って、消そうとするとかえって消せない。そういうもの。

流れていったり薄れていったりするものです。

それ自体に直接触れようとすると、それが回想と脚色のループの元になってしまう。

感情や思考にひとりで直接アプローチするのは危険だからこそ、身体を動かすのがいい。そう思っています。

 

 

  *   *   *

 

 

ふわっと少し離れて自分を理解する瞬間があるのが、ヨガのいいところ。

三角のポーズとか前屈とか三点倒立とか、定番といわれるポーズも、息が吸える量を意識してみると効果が感じられます。

ポジティブな決断をする方向へ自分を躾けたいときにも、いいものです。

 

これは「つり針のポーズ」というちょっとマイナーなポーズなのですが、エネルギーの流れの手順を整えてからやってみると、すごくよいポーズです。

 

 

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自分で身体を動かしてみてわかることがあるって、いいもんですよ。

 

 

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