うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

聞く技術 聞いてもらう技術  東畑開人 著

今年は例年になくいろんな人と、少人数で、あるいは二人で、思っていることを人と話した一年でした。

マスクをしない生活になって、そうそうあなたはこんなお顔・表情でしたねと。

 

 

2020年の3月くらいから、今年多くの人がマスクを外すようになるまで、仮想メモリをずっと大量消費しているパソコンのような脳の状態が続いていました。

その感じが、この本ではこのように語られていました。

 

 

  リソースが限られている社会

 

 

まさにそうだと思いながら読みました。

わたしは2020年から2022年の間に、なんで急にそんなこと訊いてくるの? と他人に対して思い、心の中で線を引いてしまったことが何度かありました。

普段から話している人とは「あれについてはどうした?」「わたしはこうしてる」と話していたし、職場の人との会話もスムーズだったのだけど、そうではない、めったに会わない人とのコミュニケーションがむずかしくて。

その時に悲しかったのは、この人はわたしが心理的に遠い間柄だから、こんなことを前振りなしに訊けるのだろうと考えることでした。

その時に、「聞く技術」を発動できませんでした。

 

 

この本では、当時のしんどさの背景が以下のように書かれていました。

 たとえば、オリンピックの開催にせよ、感染予防対策にせよ、ワクチン接種にせよ、賛否両論ありました。

 それぞれが切実な理由を語っていたわけですが、コロナ禍にあってはすべての立場の人が追い詰められていて、自分とは異なる見解に耳を傾ける余裕がありませんでした。

 互いに相手陣営を悪魔化して、自分たちの声を聞いてほしいと叫び続けることになりました。そうなると、社会は分断され、最後はちからで押し切るしかなくなります。

 リソースが限られている社会とはそういうものです。

(第4章 誰が聞くのか より)

わたしはあの期間中、定常的に会う人とは以前よりも話すことができ、そうでない人からは、強い言葉でメッセージを出す誰かの引用のようなフレーズしか入ってこない、妙な期間でした。

 

話している人との関係は充実しました。「職場の後輩が後遺症の話をしてくれて、考え方が変わった」とか、そういう話を聞かせてもらうことで、ああこの人は以前はこういう考え方で、身近にそんな話をしてくれる人がいるんだなとか、その人の人物画の背景に描き込みが増えていくような会話がいくつもありました。

 

 

「聞く技術」が発動できなかったのは、実際にはメールで、トピック・質問自体がいきなり突きつけられるように感じたときでした。

「先にあなた自身の話をしてくれないと、こちらが出すものが多すぎてしんどいのだが。どう返せばいいの?」と思っていました。

“あなたはブレない人、わたしはブレブレな人” という設定を組み上げた状態で遠くからテキストで投げ込まれる質問に疲労しました。

 

 

だけど話せる人とは、ほんとうにいろんな話をしたんですよね・・・。充実していました。心を包んでいる肉体がいま同じ地面を踏んでいる、という状況の力を感じました。

歩きながら話すとさらに一緒に景色の変化を見ている視点の共有の感覚が加わって、わたしは食事よりも一緒に歩くことのほうが目に見えない効果が大きいと感じています。

 

 

道徳と医療

ちょうどここ1ヶ月ほど考え続けてきたことと重なる話もありました。

トルストイの『光あるうち光の中を歩め』という小説をじっくり再読したばかりだったので、以下の部分が印象に残りました。

 道徳ってね、心と体の調子がいいときに考えるべきことだと思うんです。正しいことをなすか否かを悩み、決断できるのは健康なときだけです。具合が悪いときには、目の前で生じることに反応するのが精いっぱい。

 だから、追い詰められているときには、まわりから眉をひそめられるような言動をしてしまうものです。しょうがないです。

 そういうときに必要なのは、強い意志ではなく、診断書を書いてくれる医師です。

(第3章 聞くことのちから、心配のちから より)

ここは最後に「イシ」と脳内で韻を踏んで気持ちよくなっちゃったのかな・・・と思いながら読んだのですが、それはさておき道徳の代わりに医師が必要になる場面について。

 

『光あるうち光の中を歩め』に、まさにここで指摘されていることを主人公が経験する設定がありました。

主人公が元気なときにたまたま知り合った、道徳を説く弁の立つ中年男が、あとになって医師であることがわかる。それがわかるのが、主人公が病気をしたときです。

同じ人物が、主人公に対して二つの役割を果たします。

トルストイの書いた物語には中心に宗教の存在があるので、信仰に支えられるものは何かという問いが題材になっています。

 

 

この東畑開人さんの本では、途中でメンタルヘルスのケアシステムとして、3つのセクターに分けて考える章があり、そこでは以下のように分類されています。

 

  • 専門職セクター(医者・看護師・心理士)
  • 民俗セクター(アロマセラピストとか占い師とか拝み屋さん)
  • 民間セクター(家族・友人・職場の人)

 

日本の場合はこの民俗セクターに、トルストイの描いた原始キリスト教の人たちも含まれると思うのですが、この本では民間セクターのほうに焦点が当てられています。

民俗セクターの部分は以下の本で見事に分析されており、過去に読んだことがあります。

 

 

わたしはヨガのコミュニティ世界をいくつか見てみることで、所属意識を満たしている資本主義社会の中での組織、あるいは業界の役割を再認識するようになりました。

終身雇用の時代は終わっても、なにか特定の言語が通じる場所がある、その下支えを甘く見たり舐めてかかるもんじゃないなと。著者自身も同業者を意識してそこに向けて語りかけることもしていて、そうなんだよね、その連携の感じ。と思いながら読みました。

 

スピリチュアルがビジネスパーソンから嫌われるのって、たぶんここを認識しているからで、だけど逆のものも必要になる可能性もぞわぞわっと感じている。だから気持ち悪くて嫌われるんだよな、と思っています。

帰属意識を満たす地域・家族社会の代わりに、民俗セクターで「ほんとうのあなた」とか「あなたの性質・気質」と言われると安心するのは、全部のバランスをとることが至難の技かつ考えてそれをやり続けるのはしんどいから、頭を休めるのにちょうどいい。

 

 

この本の著者が将来どんな考えに向かっていくのか、思想が立ち上がっていくのかわからないけれど、わたしは同僚や同業者の関係性に焦点を当てているところに好感を持ちます。

同じ環境・立場を共有した者同士だから話せることと、そうでないことってある。

この本の誤解されやすいところは、その違いを乗り越えて「聞け、聞いて徳を積め」と言っているように思えるところで、なんでそう感じるのか不思議なのだけど、たぶんこれは語り口のせい。

この著者の本は、この語り口で得しているところと損をしているところがアマゾンレビューから見えてくるところまで含めて、なにかの実験のように感じて興味深いです。