大学の先生が中高生に向けて、社会を変えていくためにわがままを言うことの意義を伝えていく講義仕立ての本です。
わたしはあのとき必要なわがままを言った。だけど後から罪悪感にさいなまれた。だからもう、言うのもやめておく。後で言ったら言ったで、なんでそのときに言わないんだといわれる。もう考えたくない。
── こういう当たり前の摩擦に疲れて口も心も閉ざすサイクルをデフォルト化させてしまうと、どうなるか。
以下は、わたしがこの本を読みながら思いついた小さな例。
ここ数年の日本の夏の暑さは尋常ではないと、体感として思う。
かなりの人数が熱中症になり、人間の体力をエアコンで補強したほうが人数的には多くを救える。小学校低学年の子の身長では気温はもっと暑く感じられるはずなのだけど、学校へのエアコン設置に反対する人がいるという。
反対の人にも言語化できない思いがあって、「とにかく反対」「なんとなく反対」に至るまでの ”とにかく” や “なんとなく” の背後にモヤモヤがある。
エアコンの件は些細な例だけど、そういう場面で受け取ることになる攻撃的に感じられる音(言い方も含めて)、あるいは視覚情報(色使いや書体も含めて)について、これは嫌悪感なのかなんなのか、わたしはよく迷う。
攻撃的と感じる感覚は自分のなかで起こること。だからわたしはその都度考えるようにしています。
悪意がないのはわかっているけれど関わらないようにしようとか、善意なのはわかっているけれどノー・サンキューですという判断は、日常によくあることです。
これはキャパシティのコントロールで、心のコンディションがよくないと、常に一定の質を保つのは簡単なことではありません。体調や環境に引っ張られる揺れのベースを補強するのが各個人の思想や哲学なのだけど、それを育てることの必要性もまた、個人によって重みづけの度合いが違います。
・・・ということを、この本ではちゃんと中学生・高校生向けに伝えています。
考えなしに「有名だから」「好きだから」といって、他の人の意見に流されてしまうことは、どちらかといえばみなさん抵抗がありそうです。ここでお伝えしておきたいのですが、「他人がそう言うから自分もそうする」という意見のつくり方というのは、必ずしも否定されるべきではなく、大人にとってもある程度「ふつう」のことでもあるのです。
(3時間目 「わがまま」準備運動/いろんな大人に会う より)
自分が大人になってみると、些細なことですら「あなたはどっちにする?」とまず他人に聞く人が少なくないことがわかります。だからどの世代にもインフルエンサーと言われるような人がいるわけで。
この章で著者が ”ある程度ふつうのことでもある” という伝えかたをするのが、すごくいいなと感じました。
序盤で【「ふつう幻想」が「ずるい」をつくる】という話をされているので、そのあとで使う「ふつう」という言葉は毎回説明が必要になりそうなものだけど、そこで ”ある程度ふつうのことでもある” という日本語の使いかたに、説明のうまさを感じます。
【「おうち語」化に気をつける】というトピックでも、伝える側が意識すべき表現について触れています。
ほかにも、イベントのパリピ感への反応に先回りした提案があったり、自分の「キャラ」に対する見積もりが重すぎるマインドへの配慮があったり、非現実的と思える目標に向かって活動する人のバーンアウトとそれをサポートする団体の例を紹介していたり。
出る杭が打たれるだけではない社会の現実(悪いことばかりでもない現実)を伝えようとされていて、最終章にあるさりげない一文が、シンプルだけど響きます。
人生で同じ問題を追いかけられる時間は限られています。
自分がその問題から離れて次の問題に取り組むとき、過去の「キャラ」に縛られていては、先に進めません。特に10代は、ほんの数年単位で取り組むべき課題が次々に現われます。
わたしが著者を知ったきっかけは、以下の文章でした。
この文章ではじめて著者を知ったのですが、どんな考え方でどういう判断をしたのかを伝えるために言葉を尽くしていて、すばらしいと思いました。
和やかなムードのなかで一方的に詰められる距離や固定化されるキャラクターに対して「その要求に応対しなければいけないならば降ります」と、先生と呼ばれる職種の人が社会に対して示すというのは、学生にとっては心強いはず。
この本を読み終えたあとに、中学生の頃に担任の先生が突然辞めることを知らされ、「やっぱり我慢してたんだ。そりゃそうだよな」と思ったときのことを思い出しました。
あれから30年以上が過ぎて、我慢を強いられる状況は少しずつだけど変わってきています。
わたしも、このブログでわがままを発信しています。ここは、わたしにとっての "そういう場" です。