うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら 15冊から読み解く家事労働と資本主義の過去・現在・未来/チョン・アウン著 生田美保(翻訳)

近頃、誰かが本を読んで考えたことをまとめた本が面白く感じるようになってきました。

少し前に読んだこの本が爆笑モノで。

 

 

で、今日紹介するこの本は

 

 

  • 著者は韓国人女性
  • 二人目の出産で会社勤めが無理になった
  • 資本主義や女性の家事労働に関する15冊の本を読んだ

 

その経過が、読書を通じた振り返り思考エッセイになっています。

おもしろい構成ですよね。

で、読んでいると

 

 

  韓国も、そうなんだ!!!

 

 

がいっぱい。

韓国の家族観がわかる形で書かれていて興味深いです。そして、日本よりも揶揄がどぎつい。「ママ虫」という言葉があるのは有名な小説を読んで知っていたけれど、ほかにも強烈なのがいくつかありました。

 


この本は韓国の日常を、資本主義社会を見つめ直す形で追いかけています。
子どもが二人になり会社勤めを辞めた著者が、マルクス資本論について話し合う講座の輪の中でこんな内省をしています。

私はなんで会社を懐かしがっているんだ? どうしてほかの人たちみたいに資本主義を憎めないんだろう? 心の片隅で密かに資本主義がいいと思っているのはなぜなんだ?
<私が生きている世界はどんなところか より>

これはわたしがインドで練習旅行をするたびに起こしてきた問いと似ています。
しかもわたしが心の中で問いを向けた対象はインドの人たちではなくて、インドで出会った日本の人たち。

 

長くても10日ほどの滞在で帰国の途につくわたしに、有閑マダムや自由なバックパッカーたちから「会社勤め乙〜」(社畜身分、おつかれ〜)と言われている気がしていた、あの頃の被害妄想の感覚を思い出しました。

 


こういう感情を、まったく違うテーマで書かれたこの本のなかに何度も見つけました。
5ページに1回くらいのペースでそれがやってくる。(頻繁!)
夫に対して「上司から決裁をもらうような感じ」というフレーズを目にしたときには、”なんであのとき再婚しようという気がまったく起こらなかったのだろう・・・”  と、すっかり忘れていた過去の素朴な問いが解凍され、いろいろ感情のリアリティがすごい。いらない感情だからすっかり忘れていたけれど!(爆)

 


わたしが最もうなずきながら、うなずいてはいけない、いや、やっぱりこれはうなずくという気持ちで読んだのは、終盤に登場する韓国の法輪という僧侶が書いた『母親授業』という本にまつわる話でした。
結婚も出産も子育てもしたことのない男性の僧侶のもとへ、なぜ女性たちがこんなに集まるのか。そんな疑問から話がはじまります。

 彼は資本主義体制の仕組みについて模索したことがあるだろうか。資本主義は悪いという表面的なレベルではなくて、資本主義が男と女をいかに巧妙に分けて、それぞれ異なる方法で手なづけ服従させているか、じっくりのぞいてみたことがあるだろうか。資本主義社会において宗教がどのような役割を担っているのか、宗教内で主にリーダーの役割をつとめるのは男性に限られ、その男性を補助し、宗教内のさまざまなプログラムがスムーズに進むよう陰で雑務をしている人々の大部分が女性だという事実を、一歩離れてひとつの風景としてながめたことがあるだろうか。
<尼僧が『父親授業』という本を出したらどんな反応がくるか より>

ここまでは、まあよくある疑問です。
インドやスリランカのお坊さんの話なら聴けるけど、日本のあの政治家たちと地続きの社会で生きてきた僧侶の話はどうも聴く気になれない、という感覚を持った人って、実は多いと思うの。

 

 

そしてこの次の章でさらに掘り下げられる内容が、本当にそうなんだよ・・・とうなずく内容です。
これは言うなれば「カルマ・ヨーガはどこで行われるものか問題」とでもいうような、かなり芯を食った問い。

 私という主婦が法輪和尚の浄土会が主管するボランティア活動に夕方遅くまで参加すると仮定してみよう。主催者である法輪という男性僧侶は、私の「無報酬で働くことに慣れた」利他性を満足げにほめるだろう。しかし、ボランティアのせいで子どもたちの夕食の準備が遅くなったことに対し私のまわりの人たちは、「自分の子どものごはんもまともに作れないくせに、なにがボランティアだ」と舌打ちするだろう。かと思えば、私と全く親交のない誰かは、私の宗教施設でのボランティア活動を「家で遊んでいるおばさんたちの退屈しのぎ」程度に考えるだろう。主婦の同一の行為がそれぞれの立場と見方によって正反対の評価を受けることになるのだ。だから、結婚して子どもを産んだ女性が外で活動して利他的な人生を生きるというのは、そうして人々からわずかでも尊敬を得るというのは、いかに可能性の薄いことか。試してみたところで、あちこちから非難された挙句、元の場所に戻ってきて、決められた日常を送るのが関の山だ。
<主婦はなぜ家族のことしか考えないのか より>

これが独身女性なら、ボランティアの前にやることがあるだろ(婚活しろ)ということになり、わたしはこれを「カルマ・ヨーガはどこで行われるものか問題」と心のなかで呼んできました。

 


「女三界に家なし」という言葉があるけれど、「女三界に家なし、いわんや社会をや」で、家を得ることを最大限頑張る熱意を見せずして、社会で認められたいとは何事か。という文法が当たり前に成り立ってしまう世界線を生きている人と、真逆の人がいる。というか、就職するまでは思いっきり真逆の世界線で足並みを揃えていたのに。
韓国も、そうなんだ・・・と思いながら読みました。

 

 


 あの僧侶は「無報酬で働くことに慣れた」利他性を満足げにほめるだろう。

 

 


このように想像する意識の根幹を自ら掘り下げ、これって魔女狩りの逆バージョンでは? と言わんばかりの鋭い指摘(しかもきっかけ・指摘対象になるのが宗教者)を展開します。
15冊の本を読むことがここへたどりつく開墾プロセスになっていて、やっぱりこのくらいしないと、この根っこの成分は絞り出せない。

 

 


 法輪和尚にほめられて喜ぶ自分になったら、自分の未来が危うい気がする。

 

 


この本に書かれている葛藤は、たぶんそういうこと。わたしはそう読み取りました。
そしてその危機感覚を、わたしは正しいと思うのです。著者の生活の様子を読む限り、当然の感覚。

日本の場合は、子供を捨て不倫もして出家した作家の尼僧に人生相談が集まる特例的な状況だったからこういう疑問が出てこなかったけれど・・・。
そう思うと、サンドバッグ状態を経験して見せてくれた瀬戸内寂聴さんがいた社会って、ありがたいのかも。うん、ありがたい。(なんでここに着地した)