まえに岩波文庫の「デミアン」を読み、こんな小説があるのかと衝撃を受け新潮文庫でも読んでみました。
初回よりは落ち着いて読めたのだけど、この本は太宰治の人間失格と同じように、わたしの場合は10代で読まなくてよかったかもしれない。全体に流れる「とくべつなけいけん」「わかる人間だけの気づき」のムードがわたしを多大な勘違い人間に育て上げたかもしれない。そんな危険を勝手に過去にさかのぼって想像しました。
わたしの場合はアラレちゃんやちびまる子ちゃんや稲中卓球部のメンバーが俗世間につなぎとめてくれたけれど、子どもの頃から文学に親しんでいたらやばかったかも…。そんなふうに思うほど力のある心理描写が次から次へと続きます。
二冊読んでみたら、その微妙な訳の違いにも惹かれる部分がたくさんありました。
桎梏と訳すか隷従と訳すか、純潔と訳すか清浄と訳すか、融合と訳すか結合と訳すか、ふるさとと訳すか家と訳すか。このような微妙な違いだけでも自分の中で解凍されるイメージがずいぶん変わってきます。それぞれの深みがあります。
わたしがいちばん同じ原語でもこんなに割れるのかと思った箇所は以下でした。(ネタバレしないよう、誰のいつのモノローグかは書かずにおきます)
ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。── 各人にそれぞれの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。
(新潮文庫 高橋健二 翻訳)
そしてそのとき突然、はげしいほのおのように、つぎの認識がぼくの身を焼いた ── どんな人間にも、なにかの「任務」はあるが、自分でえらんだり、限定したり、勝手に管理したりしていいような任務は、だれのためにも存在してはいない。
(岩波文庫 実吉捷郎 翻訳)
最後まで読む前提での全体の物語のありかたとしては前者が、その瞬間ごとの主人公の思考へ寄せていく文章としては後者が、それぞれに適切に見えます。
バガヴァッド・ギーターの上村勝彦版と田中嫺玉版のような違いがそこにあって、あとであちこち読み比べてうなりました。わたしはドイツ語がまったくわからないけれど、やはり訳すときにはこういうことが起こるもの。言葉選びは記憶の共有のための選択の連続。
この新潮文庫の「デミアン」は言葉が現代に近いぶん読みやすく、少しだけ登場人物たちがクールに見えます。クールなぶんミステリアスさが増して、魅力を感じる人もいるかもしれません。
いずれにせよ、安全な場所で全能感をじゅわっと溶かすだけのスピリチュアル本を10冊読むよりは、どのデミアンでもいいから「デミアン」を読んだほうがいいよと一目置いている友人にだけこっそり教えたい。そんな物語。最後まで読むと人間の心の歴史に帰着する。イリュージョン止まりでなく現代の問題に続いている。
わたしはこの本を大人になってから読んだので、とても言語化のむずかしい "過去の恩を帳消しにしたい" という複雑な感情をいくつかの角度から掘り下げることになりました。このあたりが、ほかの小説にはない凄みではないかと思います。わたしは感謝の気持ちがわいてくるのにはそれなりに時間がかかると思っているのですが、そのプロセスのすごく複雑なところを紐解いてくれている、そんなふうに感じる小説でした。
ちまちま読書をしていると、年に何冊かこういう本に巡りあえます。
- 作者: ヘッセ,高橋健二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1951/12/04
- メディア: 文庫
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